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情報と芸術

抽象画という芸術がある。

何を描いているのか分からない絵のことである。

小さい頃は、その価値がさっぱり分からなかった。

子供の落書きにしか見えないわけで。

しかし、ある一時期、ある一定時間抽象画が目の前にあった。

ぼーっとした頭でその絵をみると、ある日は炎に見え、ある日は踊る人達に見えた。

そして、ずーっとみていて、一つのことに気付いた。

「あぁ、飽きないんだ」

抽象画は、ぼーっと見てても、飽きない。

で、脳の中では、炎に見えたり、人間に見えたり、樹木に見えたり、するわけで。

何が描いているかはっきり分かる絵は、「それ」だけなので、初めは感動するけど、飽きる。

そのことに気付いたとき、面白い!と思った。

なんなのこれ?っていう方が飽きないのだ。

脳が。

抽象画を思いついた人はエライなぁ。

さぞかし勇気が必要だったことだろう。

上手い、っていうことから離れているから。

なにこれ?っていう非難も轟轟だったことだろう。


老子も抽象画に似ているなぁ、と思う。

さっぱり分からないから。

でも、何かが書いているわけで。

解釈本も沢山出ている。

で、その解釈に「?」となることも多い。

老子はヒーリングのための本ではない。

生きにくい世の中を、生きやすくするための本ではない。

何も優しいことは書いていない。

天地仁なし、万物をもって芻狗(すうく)となす。

天地に慈しみの心なんてない、万物がどうでもいい存在です。

これです。

このピシャリと頬を打つような感覚が老子にはある。

どちらかというと厳しい本です。

疲れた心を癒す本ではないです。

と、言っておきながら、

これも解釈です。

抽象画ですからね、どんな風にも読めるんです。

人は求めたいものを対象に映す生き物です。

鏡ですね。

だから、ヒーリングだと思えばそれもまた良しなのです。

これが抽象画の良いところ。


何かいいたいのかと言うと、これがアート(芸術)です。

脳をね、ひろーく使うのがアート。

いろんな部分が活性化するのが、アート。


この前、NHKで若者が本を読まないとか特集をしていました。

本て!!

めっちゃざっくりじゃないですか!!

雑だなぁ、NHKは。

あのね、情報とアートは違うんですよ。

欲しい情報をとる行為をインターネットでするか、本でするか、という事をやっておりました。

それは、情報!

みそ、くそ、一緒かい。


明治時代の人の本を読むと、すごく詩の引用が多い。

するすると、詩が引用されている、

呼吸のように詩がでてくるわけで。

日本の歌人、漢詩、西洋の詩、などが、するすると。

詩が日常だったのでしょうね。


結局、快楽なのだと思う。

快楽であるから、手を出す。

苦痛ならば、手は出さない。


情報を欲するのか、アートを欲するのか、その人次第。

脳のどこを使いたいかってことです。


ここで、好きな詩を引用します。


たのしみはまれに魚(うお)煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時


これは猫を飼っている人は好きな詩じゃないかな。

猫缶をあけて、お皿に入れると、とても美味しそうに食べる。

まさに「うましうまし」という感じ。

この歌人はとても貧乏で、たまにしか魚を食べることができなかったんですね。

で、その魚を子供たちが「うましうまし」と。

この瞬間をきりとった詩。

とても素敵。

NHKもね、本を読まなくなった若者とか、ざっくりとまとめるんじゃなくて、もっとこう、丁寧にあつかって欲しいなぁ。

にんとも、かんとも。



猫はため息をつかない

寵辱(ちょうじょく)には驚(くる)えるが若(ごと)し。

これ、前にも書きました。

寵愛と屈辱は人を狂ったようにさせる。

ほんと、これ。

何千年経っても、これ。

この強い鎖から解き放たれるのはいつの日か。

ここまでくるとDNAレベルのすり込み。

この結果もたらされるのは、激しい嫉妬。

人間が知性を持つ唯一の動物だと言ってる人、出てこい。

動物以下ですよ、実際。

理性も、知性も、へったくれもない。

激しい嫉妬を見つめられる勇気のある人はいない。

自分の心のヘドロを見つめる勇気のある人はいない。

理不尽な扱いを受ける人の身にもなってくれ。

ほんと迷惑。

ポジティブシンキングなんて、全て口先。

ネガティブじゃないですか、実際。

ポジティブシンキングで行こう、っていう人ほど、ネガティブ。

すごいネガティブ。

でも、勇気がないから、ネガティブを認めることができない。

何千年繰り返すの?


パトラッシュ、僕、もう疲れたよ。なんだかとても眠いんだ。


と、ネガティブなことを吐きました。


いやはや。

にんとも、かんとも。

人間、めんどくさい。

他人の評価に一喜一憂。

メシの種だから仕方ないのかな。


自分の心を整えるために、老子の中でも、一番素敵な詩を書こう。

ちょっと異色なんですよね、老子の中でも。

老子自体、ひょっとしたら、色んな人の書き足しがあるっぽいです。

だから、老子がとっても好きな人が書いた詩が混じったのかな、と思います。


絶学無憂、唯之与阿、相去幾何、
善之与悪、相去何若、人之所畏、不可不畏、
荒兮其未央哉、
衆人煕煕、如享太牢、如春登台、
我獨怕兮其未兆、如嬰児之未孩、
儽儽兮若無所帰、衆人皆有餘、
而我獨若遺、我愚人之心也哉、
沌沌兮、俗人昭昭、
我独若昏、
俗人察察、我独悶悶、
澹兮其若海、飂兮若無止、
衆人皆有以、而我獨頑似鄙、
我独異於人、而貴食母


学を絶たば憂いなからん。

唯(い)と阿(あ)と、相い去ること幾何(いくばく)ぞ。

善と悪と相去ること何若(いかん)。

「人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからず」と、荒兮(こうけい)としてそれ未だ央(きわ)まざらんかな。

衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春台(はるうてな)に登れるが如し。

我独り怕兮(はくけい)としてそれ未だ兆(ちょう)せざること、嬰児(えいじ)の未だ孩(がい)せざるが如し。

儽儽兮(るいるいけい)として帰(き)する所なきが如し。

衆人はみな余り有り、而(しこ)うして我れは独り遺(うしな)えるが若し。

我れは愚人の心なるかな。

沌沌兮(とんとんけい)たり。

俗人は昭昭(しょうしょう)たり。

我は独り昏(こん)なるがごとし。

俗人は察察(さつさつ)たり、我は独り悶悶(もんもん)たり。

澹兮(たんけい)としてそれ海のごとく、

飂兮(りゅうけい)として止(とど)まるなきがごとし。

衆人みな以(もち)うる有り、しこうして我れは独り頑(がん)にして鄙(ひ)なるににたり。

我れは独り人に異にして、しこうして母に食(やしな)わるることを貴(たっと)ぶ。



長いですね。

どんな意味でしょ?


他人からもたらされる価値観(常識)を捨てたら、わずらうことが無くなる。

「はい」というのと「うん」というのが、どれほどの違いがあるというのだ。

善と悪の違いがどれほどあるというのか。

「他人が恐れていることを、自分も恐れなければならない」というが、そんなことばかりやってたらキリがない。

衆人は嬉々として、生贄(いけにえ)を食べ、春の日に、高台から下を見晴らす。

われひとり、身じろぎもせず、何の兆しも見せず。

まるで、まだ笑うことを知らぬ嬰児のようだ。

ふわふわと、さだまらず、どこにも、くっつかず。

衆人は、余りあるほど所有している。

わたしひとり、からっぽのようだ。

わたしは、愚かにみえるだろう。

わたしは、なまくらにみえるだろう。

俗人は輝いている。

わたしひとり、暗くみえるだろう。

俗人は颯々(さつさつ)としている。

わたしひとり、悶々(もんもん)としている。

荒波にもまれ、吹きすさぶ風にあおられ、とどまれない。

衆人はみんな得意なことがあるようだ。

わたしひとり、他人からみて、得意なことがない。

しかし、わたしひとり、人と異なり、母なる宇宙と一体となることを貴ぶ。


2000年前ですよ、これ。

なんかすごくないですか?

こんな詩を書けるなんて。

まわりが皆、颯々としているときに、自分ひとり悶々といているわけです。

これはどういう事かと言いますと。

まわりは外に向かっているときに、自分だけ、内に向かっているということです。

内に向かうというのは、荒波にもまれ、強風にふかれ、非常にくるしい状況なわけです。

でも、その先にあるのは、宇宙と一体であるという、安らぎですね。

母親の母体の中いるときが、人間は、一番宇宙と一体となっている、というわけです。

このころの記憶は無くなるわけですが、恐らく、人間がもっとも幸せな時です。

ここに還ろうとするのが、老子のいうところの「道」に近い、ということです。

そのためには、内に内に向かうこと。

でも、簡単なようで、簡単ではない。

人間は笹船のような存在です。

くるくると世間に翻弄され、たよりない。

内に向かう勇気なんて、そんなものはない。

ねずみの国に行って、キャーキャー言ってる方が楽ですから。

そして、最初に戻りますが、

他人の寵愛や屈辱に一喜一憂し、嫉妬心で他人を攻撃するのです。

他人からの評価って、他人ですよ?

それが何?

他人が王なの?

自分の王は自分の中にしかいないです。

他人の王に従うよりも、自分の王に従いたい。

王っていうか、神様ですけどね。

その声に耳をすましたい。


世知辛い世の中に暮らしておりますが、他人に振り回される必要はないんです。


われひとり、猫をモフモフたり。

しあわせ、はここですよ。

モフモフたり。

出力

スティーヴン・ホーキングという偉大な理論物理学者がいます。

筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)という難病を患っています。

ALSですね。

で、スティーブン・ホーキングは、この病気にかかってから、最も長生きしている人です。

徐々に筋力が落ちていきますからね、かなり怖い病気です。

でも、脳だけは、元気なんです。

脳は筋肉じゃないですから。

だからこそ、怖いんです。

脳だけ正常で、あとは動かないって、逆に辛いと思うのです。

じわじわくる恐怖と真っ向から対面しなくてはならないから。

しかし、このホーキング博士、めっちゃ明るいんですよ。

常に、冗談を言って周りを笑わせるんです。

パーティも大好きで、どこへでも出かけます。

シャンパンもスプーンですくってもらって飲んでます。

介護者の女性の方も、これまた明るい。

恐らく、介護は大変だと思うのですが、そんな雰囲気を出さない。

どんだけメンタルが強いんだ、と感嘆する。

いつ死ぬか分からない、それはどうにもならない、とホーキングも介護者も開き直ってる風情です。

もっとすごい事に、ホーキングは雑多なことに煩わされずに研究に没頭できるからラッキーだと言っているのです。

普通の人達は、日常のアレコレに煩わされて、思考を中断させられるけど、自分は違う、と。

通常のものさしでは測れない人。

で、ホーキング博士なんですけどね、ちょっと前までは、手でカーソルが操作できていたんです。

それが、手も動かなくなって、今は頬の筋肉で操作しています。

そのうち、頬も動かなくなるらしい。

何度も言いますが、脳は正常なんです。

博士の脳の中には広大な宇宙が拡がっている、とのこと。

その広大な宇宙ですが、今のところ、出力は頬の筋肉を使った操作です。

ものすごくかすかな出力です。

で、それも不可能になったら?


こうやって考えると、なんでもそうなのかな、と。

樹齢2000年の樹が色々考え事をしていたって、私たちには受け取る術がない。

宇宙規模で広がる真理を追究していたとしても、出力がなければ、分からない。


私たちは人間の脳であれこれ考えて、色んな手段で出力をしている。

でも、出力装置がなかったら?

受信装置もなかったら?

そこには「無」しかない、と思うだろう。


でも、あるんです。

少なくとも、ホーキング博士の中には広大な宇宙規模の意思があるんです。

出力ができなくなるだけ。


それを「無」とはいわないだろう。

でも、受信できなければ、「無」と思う。


そんなことが、実はたくさんあるのかもしれないなぁ、と思う。

受信できてないだけ。


どんな物質だって、実は、いろんなことを考えているのかもしれない。


禅という興味深い思想がある。


西洋では、まず、自分が「在る」ということから出発する。

しかし、禅は、まず自分が「無い」ということから出発しようとしている。

「無い」状態にすると、まわりの物質と一体になれる、と。

面白い。

こういう、何も役に立たないことって面白い。

屁の突っ張りにもならない。

でも、ここにしかないじゃないかな、って思う。

何が?

突破口が。


私たちはもう一度「混沌」に戻る方が良いと思う。

混沌とはなんぞ?

これは、荘子ですね。

簡単に訳すと。

南に儵(シュク)という帝がいて、北に忽(コツ)という帝がいた。

中央の帝は混沌(コントン)という。

あるとき、シュクと、コツはコントンに所に行った。

コントンはシュクとコツを歓迎した。

シュクとコツはたいそう喜んでコントンにお礼がしたいと思った。

「人間には7つの穴があって、その穴で見たり、聞いたり、食べたり、息をしたりしている。
コントンには何もない。よし、コントンのために穴を空けてあげよう」

シュクとコツは、一日一個、コントンに穴を空けた。

七日目にコントンは死んだ。


荘子もなかなか面白い。

混沌は、混沌のままでよかったわけです。


人間が、この混沌に向かおうとするのが、禅なのかな、と。

私の解釈ですけどね。


出力装置のない物質。

「無い」と観るのか「在る」と観るのか、面白いですねぇ。





DNA

日本は、文字のない時代が長かったようです。

いや、あったと言う人もいるでしょうが、とりあえず、なかったというのが正解でしょう。

長い間、文字をもたない日本人はどうしていたのか?

言葉はずっと古くからあったようです。

文字はなくて、言葉はあった、と。

で、記録、なんですけどね。

なんらかの記録をするときに、何を用いたのか?と。

それは、おそらく、「縄」です。

縄に記録を残していたのではないか、と。

まぁ、勘の良い人は、神社のしめ縄を思いつくでしょう。

縄に記録するのは、契約に関することのようです。

約束ですね。

何らかの約束をした証に縄を結ぶのです。

この縄を記録に使うという文化はちょっと面白いですね。

日本だけじゃないんです。

実は、インカ帝国も「キープ」という縄を結んで記録をしていたのです。

インカ帝国のキープは非常に複雑で、いろんな情報を縄に記していたわけです。

ちょっと複雑すぎて、いまだに解読はできていません。

で、もっと興味深いことに、インカ帝国の人と、日本人は結構近いみたいですね。

DNA的には親戚っぽい、と。

ちょっと興奮しません?

キープによく似たものを継承しているのは、沖縄ですね。

割と近代まで、縄を使って記録をしていたようです。

ちなみに、インカ帝国も文字はなかったのです。

ふふふ。

で、ここで老子です。

え?ここで老子?

という、いつものパターンがでてみたり。

かなり興奮する記述があるんですよ。

この老子80章は、老子の考える理想国家について述べているんですね。

老子の考える理想国家とは、どういうものでしょう?

小国寡民、使有什伯之器而不用、
使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、
使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰國相望、
鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往來。

小国寡民(しょうこくかみん)には、什伯(じゅうはく)の器有りて而(しか)も用いらざらしめ、
民をして、死を重んじて而(しこ)うして、遠く徙(うつ)らざらしむ。
舟輿(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、之(これ)に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を徒(つら)ぬる所無し。
人をして、復縄(またなわ)を結んで、而うして之を用いしめ、
其(そ)の食を甘(うま)しとし、其の服を美とし、
其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。
鄰国(りんごく)相(あ)い望(のぞ)み、
鶏犬(けいけん)の声聞こえて、
民は老死に至るまで、相往來せず。


国は小さく、民も少ない。

戦争に使う道具はあっても、これを使うことはない。

民の生命を大切にし、遠くに移住させることもない。

船や車があってもそれに乗ることもない。

鎧や兜も並べることもない。

もう一度、太古の人達が縄を結んだ世と同じように、

素朴な食を美味しいと思い、

素朴な服を美しいと思い、

素朴な家で安らかに暮らし、

素朴な暮らしを楽しいと思えば、

鶏や犬の声が聞こえるほど、隣国は近くても、

死ぬまでその国を離れることななく、行き来することもない。



どうですか?

これ。

すごくないですか?

老子って2000年前くらいの書ですよ。

老子恐るべし。

でも、ちょっと悲しいのは、老子の時代ですら、そうではなかったということです。

人々は、戦争をし、グルメに走り、華美な服装を好み、豪華な家に住みたがり、遠くに出かけたがる。

2000年前でもね。

もう、どれくらい繰り返せば良いのでしょうかね?

老子の理想の国って、はるか昔の、日本の暮らしってことですよね?

どんぐり、を食べて喜んでる日本ですよ。

ハマグリなんかを、「捕ったど~~~~」と喜ぶ日本ですよ。

縄を結んで、それが何かの約束だった日本です。

縄文時代の埋葬などは、とても手厚かったみたいですね。

副葬品としての土器も、来世への祈りがあったようですね。

ありと、あらゆる、DNAが混じっている日本人。

それは、いろんな種族を根絶やしにせず、受け入れてきたからです。

決して、単一民族ではないんです。

むしろ、ハイブリッドです。

キリストだって、アッラーだって、受け入れます。

800万の神様の一人ですから。

あの民族は好かん、あの民族は気に食わない、などとは言わないのです。

そんな小さな心の民族ではないんです。

色んな国の文化を尊重し、受け入れてきました。

そういうのをね、ちゃんと、心に刻んでおかなくちゃね。

一人、一人の、心の中に入っている神様の存在を感じてください。

私の中の神様は、本当に、人見知りで、偏屈で、ちょっと困った神様ですけどね。

800万もいますからね、いろんな性格の神様がいます。

うちの猫神さまは、今日も元気です。

体重8キロはちょっとどうか、と。

にんともかんとも、にんにん。

猫のひげ

ある日、夜空を見ると、オレンジ色の綺麗な星があった。

夫に聞くと、木星だという。

おお~~~!あれが木星!

ありがたや~~~~~~!

思わず、拝む。


その、ちょっと前に、ケーブルテレビで面白い番組をみた。

地球に落ちるかもしれない隕石の大部分を木星がひきつけてくれているというのだ。

もし、木星がなかったら、地球には隕石がばっこんばっこん落ちているかもしれない、という話。

ほぉおおおおおお!


昔、さよならジュピターという映画がありまして。

ご存知の方もいらっしゃるかと。

どういう内容かと申しますと、人類のために、木星を爆破するという話です。

ハッハッハ。

木星さん、ごめんなさい。



木星さんは、密かにがんばってくれてるんですよ。

だまって、隕石を引きつけて、受けてくれている。

カッコイイ。


こういう事って結構ありますよね。

月もそうです。

もし、月がなかったら、地球の地軸は安定しません。

地軸が安定しないということは、コマが止まる前のように、ぐらんぐらんするということです。

ぐらんぐらん、するということは、気候変動がすさまじくて、人間はもちろん、大部分の生物は死にます。

月のことを、「お月様」といいますね。

まさに、「様」です。

木星も、「木星様」ですね。

ありがたい存在です。

地球の周りをとりかこんでる磁場もそうですね。

大気もそうですね。

地球を守ってくれているんです。


こびとの靴屋という童話がありますね。

夜中に、こっそり、靴をつくってくれるお話しですね。

こういう、影ながら、がんばってくれている、っていうお話が大好きです。


人間は無自覚です。

いろんなものから守られているのに、気が付かない。

ほんのちょっと、そのバランスがくずれたら、人類なんてすぐに絶滅です。


猫のように生きるのが最善です。

そ~っと音を消して静かに生きる。


人間もね、かつては、そ~っと生きてたんです。

海の幸、山の幸を頂きながら、そ~っと生きてたんです。

おそらく、人間が、一番幸福だった時期です。


どこで狂ったのでしょう?


それは、おそらく、抽象化、とう概念が芽生えた時からです。

猫も、犬も、抽象化はしません。

これをするのは人間だけです。

一番、原始的な抽象化は、「数」です。

数を数えるとはどういうことか?

たとえば、猫を数える。

うちの家には2匹。

これが抽象化です。

2匹いるけど、一個、一個は別の個体なんです。

これを2、と数える。

で、どんどん、どんどん、大きな数字を扱えるようになった。


ちょっと分かりづらいですかね?

抽象化の恐ろしさが伝わりますかね?

ちょっと例をあげましょうかね。


例えば、戦争で100万人死にました、という場合、なんとなく「へぇ」としか思わないですよね。

でも、お父さんが戦争で死にました、とか、息子が戦争で死にました、という場合、どうか。

痛いですよね、心が。

とても痛くなる。

100万人というのは抽象です。

でも、その中は、だれかのお父さん、お兄さん、息子さん、であったりするわけです。

一人、一人が、誰かの家族なわけです。

数で表わされる存在ではないんです。

でも、数で表わしちゃう。

なぜ?

便利だから。

数は便利です。

数という概念が生まれて、人の争いは大きくなりました。

なぜ争いが大きくなるのか?

それは残酷になれるからです。

一個の個体として尊重するのではなく、「1」という数字になっちゃうから。

1という数字をどうしようと、あまり心が痛まないですから。

いくらでも残酷になれます。


数字が生まれ、数学が発達し、宇宙にも行けちゃう。

とても良い発見でした。

でも、そこから、大いなる不幸が生まれた。


1は命なんですけどねぇ。

2は、命、命、なんですけどねぇ。

どうしたものかね。


無自覚すぎる。


うちの猫のひげも、何かの役にたっているのかね?

すごく短いけど。


とりあえず、木星さん、ありがとう。

あなたはとても美しい。

元気玉

たまには何か役に立つことを書こう。

猫とか、犬とか、飼っている人にだけ、役に立つことなんですけどね。

飼っている動物がケガをしたり、病気をしたりすると、本当に辛い。

いじらしい生き物なだけに、痛そうにしてたり、辛そうにしてたりすると、ほんと辛い。

で、そんなときは気でサポートできますよ、と。

もちろん、前提は病院に行ってくださいね。

なんだ、気功かよ、と思われるかもしれませんが、人間には効きませんので。

人間以外の生き物限定で。

人間はね、先入観があるからね、ダメなんです。

人間に気功を施すときは、インドの山奥で修行が必要なのです。

なぜ?

先入観があるから。

インドの山奥で修行した、と言えば「ほ~~~!」となるからです。

「なんかすごそう」とか、「本物っぽい」とかなるわけです。

その先入観が非常に邪魔なんです。

例えば、インドの山奥で長年修行した気功師がいたとします。

すると、人間は、「これは効くかも」と思っちゃうわけです。

でも、猫に

「インドで長年修行してきたんです」と言っても、

「・・・・・」

無言ですよ。

だって、分かんないんだもん。

犬も猫もこういう先入観がないから、インドで修行をしなくても効くんです。

本当に、人間はめんどくさい。

何らかの権威が大好き。

その人そのものを観るのではなく、その人の飾りを見る。

ゴチャゴチャした装飾で判断する。

そういう人間の弱い心をうまく突くのが宗教です。

宗教もだし、ビジネスもかな。

ある程度の地位に就くと、したり顔で

「そろそろ、君ももっと良い車に乗らなくちゃダメだよ」

とアドバイスをする人がいる。

良い車、良い時計、そういうモノで人間の価値は上がるらしい。

しかも、実際、上がる。

なぜなら、人は、そういうモノで判断をするから。

宗教でも、ビジネスでも、非常に効果的です。

でも、犬とか猫には関係ない。

で、気功なんですけどね。

誰でもできます。

なんか、これに特化した宗教もあるみたいで。

ほんと、なんでもお金に換えるよね。

宗教ってたくましい。

まぁ、もうほっとこう。

キリがない。


で、気功なんですけどね。

誰でもできます。

タダです。

簡単です。

でも、人間以外にしか効きません。

やり方ですが、

まず、地球を思い浮かべる。

なるべく具体的に。

すごく綺麗ですよね。

宝石みたい。

で、太陽を思い浮かべる。

で、太陽の周りを周回する惑星を思い浮かべる。

で、太陽系は、天の川銀河の中の端っこの方にあるんです。

で、天の川銀河の中には太陽のような星が2000億個くらいあるんです。

で、天の川銀河のような銀河が、宇宙には2000億個くらいあるんです。

この壮大な宇宙の景色を頭の中に思い浮かべながら、そのエネルギーが自分にも注いでいる、と。

すごいエネルギーだなぁ、と感じる。

で、そこで、犬とか猫に、そ~~~~~~っと手をかざす。

自分の手から、そのエネルギーを伝える感じ。

片手でもいいし、両手でもいいし、患部にはふれないように、ちょっとだけ浮かす。

で、ここで、

「いたいの、いたいの、とんでゆけ~」と言います。

ふふふ。

可笑しいですよね。

ずーっと昔から、親が子供にやってきたことですよね。

だからね、頭で考えるとダメなんです。

昔の人は感じていたんだと思います。

目に見えない、匂いもしない、でも、ある、と。

だから、太古の昔から、やっていた。

ま、セリフはなんでもいいんです。

痛そうにしてたり、苦しそうにしてると、何とかしたくなるから。

とにかく一心で、願うことです。

時間も好きなだけ。

1分でもいいし、10分でもいい。

私が、なんでこれに気付いたのかというと、

実際に見たんです。

昔、ホラーな社宅に住んでいたとき、

夜中に金縛りにあって、いつもは目を閉じているのに、

その時、チラーっと目を開けて見たんです。

隣に父の布団が敷いてあって、父はぐっすり眠っているんですけど、

父の手の平が布団から出てて、その手の平からすさまじい光が出てたんです。

天井に向かってドーって光の柱が上がってて、その光が天井で雲のようにウネウネしてたんです。

1回しかみてないけど、ずーっと気になってて、で、あれは「気」だな、と。

そういうエネルギーが手の平から出てるんですよ、と。

父だけじゃなく、誰の手からも出てますよ、と。

それを、そ~~~~っと、ね。

あくまでも、サポートなので、病院には行ってくださいね。

この事を、なにかのときに、思い出していただければ幸いです。

いつか、誰かの役にたちますように。

にゃんにゃん。

バディ

あるビルのある一室。

向かい合ったパイプ椅子。

28歳くらいの女性。

黒い髪、大きな瞳、なかなかの美人。

困惑した表情を浮かべながら、

「上司と合わなくて・・・」

どうやらお仕事の悩みらしい。

こういう場合、友達ならば、

「いるいる。そういう上司、嫌だよね~、アタシの上司なんかさ・・・」などと同調しつつ、自分の話をするかもしれない。

もしくは、

「まぁ、上司なんだからさ、うまく合わせるしかないんじゃない?」などと、分かったようなことを言うかもしれない。

おそらく、これが一般的な会話だろう。

しかし、一般的なことをしているわけではない。

何をしているのか?

とりあえず、自分の中の善悪、価値観、道徳などは、全部外に置く。

自分を空っぽにする。

相手の言葉のみ、丁寧に、空っぽの容器に拾い集める。

いや、言葉ではないな。

気持ち。

気持ちを丁寧に拾う。

気持ちを拾うのは簡単なようで、難しい。

自分の先入観が入るから。

Aという気持ちをBに変換してしまうから。

Aという気持ちをAのまま拾うためには、自分を空にするしかない。

なんのために?


20分くらい経っただろうか、突然、目の前の女性が笑い始めた。

それはもう、面白くてたまらないといった感じだ。

私の頭の中は「?」で一杯になったが、彼女のセリフを待つ。

「あ~~~・・・・」

「途中から、なんで私、こんなに上司にこだわってるのかな?って思って・・・」

「そしたら、分かっちゃったんです」

「私、上司に好かれたいんです!好かれたいし、仕事も認めてもらいたい!」

私もビックリである。

眉をひそめて上司の事を話しているときは、暗い表情をしていた。

それが、今は、面白い発見をしたかのように目を輝かせている。

一体、何が起きたのか?

ちょっと前に、心は深く暗い海の中にある、と書きました。

で、その海に潜るのは非常に勇気が必要だ、と。

この女性は、話ているうちに、「なんでこの上司にこんなにこだわっているの?」という疑問が生じた。

その瞬間、暗い海の底にキラっと光るものを見つけたのだろう。

そこで、思い切って、ダイブでしてみたのだと思う。

で、拾ったものが、「上司に好かれたい自分」であった、と。

本人もビックリで、私もビックリである。


これは、カウンセリングである。

普通は、こんなに簡単には潜れない。

この女性はたまたま非常に勇気のある人だったのだ。

医療の現場でのカウンセリングはこうではないので、誤解しないでください。

割と、バラバラなんですよ、手法が。

だいたいね、保険点数が低すぎて、時間のかかるカウンセリングなんて無理。

商売にならない。

かといって、アメリカのように高額であれば、誰も行かない。

カウンセリングにお金を払うくらいなら、占い師にみてもらおう、という風潮だ。

カウンセリングというのは心の海の中に潜るための有効な手段である。

しかし、「商売」というカテゴリーに入れると、成り立たない。

もちろん、私も「練習」なので、タダである。

好奇心ゆえの、向学である。

プロのカウンセラーの方も多いだろうが、本当に技量はバラバラなんだろうなぁ。

カウンセラー自身に強い先入観が存在する場合もあるだろう。

カウンセリングを受けたら、カウンセラーに傷つけられた人も多いだろうなぁ。

正直、宗教と同じくらいアヤシイ位置にいるな、と思う。

むやみに近づいてはいけない場所である。

しかしですね、面白い事実はあるのですよ。

カウンセリングの勉強をしてる人って、中年以降の人も多いんですけどね、

皆さん、口をそろえて、「子供との会話が増えた」って言うんです。

「一言も口を聞いてくれなかった高校生の娘が最近話しかけてくるんです!」と嬉しそう語る。

これは、本当に、興味深い。

普通の親は、子供と話をするときに、子供の話を聞いているようで、全く聞いていない。

親の価値観を押し付ける行為をするだけだ。

子供にしてみれば、話は聞いてくれないわ、価値観は押し付けられるわ、で嫌になっちゃう。

例をあげようか、

「私、他の人のように上手くできない・・・みんな、すごく勉強もできるし、スポーツだって・・・」

「そんなことない。あなたは『やればできる子』。みんなあなたの見てない所で努力してるのよ。あなたも努力しなくちゃ、ね」

ほら。

ね?

全く、何も、話を聞いてないですよね?

子供の不安、戸惑い、苛立ち、そういう「気持ち」を一個も拾ってない。

それが分からない。

カウンセリングの実習では、自分の価値観の押し付けるような返答をした場合、指導者と観察者から注意されます。

価値観で凝り固まった人達は冷や汗をかきながら実習に臨みます。

もともと、向学心を持った人達が受講するわけですから、自己反省しつつ、改善を図るのです。

で、子供との会話が増えた~~~と嬉しそうにしているわけで。

ま、損はしない、かな。


深く暗い海に潜るのは本人だけれど、そこに誰かがいてくれたら、勇気がでる場合もある、と。

うちの猫神さまもいつも寄り添ってくれますからね。

猫の方がカウンセラーとして技量は上だな。

さすが猫神さま。

100

前々回、生まれたばかりの赤ちゃんのエネルギーを100と書きました。

これの補足。

どういう事かというと、老子曰く、

含徳之厚、比於赤子、
蜂蠆虺蛇不螫、
猛獣不拠、
攫鳥不搏、

含徳の厚き、赤子に比す。
蜂蠆虺蛇(ほうたいきだ)も螫(さ)さず、
猛獣も拠(きょ)せず、
攫鳥(かくちょう)も搏(う)たず

どういう意味でしょ?

生まれたての赤ちゃんのように徳が厚い人は、
蜂もサソリも毒蛇も刺さず、
猛獣も襲わず、
猛禽(もうきん)にも襲われない。

老子は、生まれたての赤ちゃんを道に近い存在だと言います。
徳がMAXなんですね。
徳がMAXなので、あらゆる獣が襲わない、と。

ここが100とすると、それがどんどん減っちゃうよ、と。

だから、減らないように、自分の身に徳を留めるようにしなくちゃ、と。

どうやったら、自分の身にとどめることができるのでしょうか?

それが「樸(あらき)」につながるんです。

樸(あらき)というのは、老子の中にたびたび出てきます。

樸(あらき)、とは何でしょう?

そのまんま、という意味です。

でね、「おばあちゃんっ子は三文安い」という言葉を御存じでしょうか?

おばあちゃんっ子は、ちょっと値打ちが低い、と。

なぜ?

それは、おばあちゃんは、孫がかわいくて、アレコレと世話を焼くからです。

これは、現代では、「お母さん」です。

昔のお母さんはとても忙しかったし、子だくさんでしたし、あんまりかまってあげれなかったんですね。

現代のお母さんは、ちょっとだけ暇です。

そして、子育ての情報も腐るほどあります。

で、結果、ベタベタ、ベタベタ、と子供を触っちゃう。

そうすると、どんどん、どんどん、その子供が持っていたエネルギーを減らしちゃうんです。

私のブログのテーマは、お父さんが子育てした方が良いよ、というテーマです。

お父さんは、基本的に何もしません。

しない、というか、できない。

でも、その方が良いんです。

ベタベタ触った結果、大学受験もお母さんについて来てもらわなくちゃいけない。

冷静に考えて、おかしいでしょ?

そのおかしさに誰も気付かない。

異常です。

共依存です。

子供にとっても不幸なことだし、お母さんにとっても不幸なことです。

でも、それを指摘すると逆鱗に触れます。

人間、痛いところを突かれることほど、怒るのです。

真実は、痛い。

お父さんが子育てに参加することをイクメンと言いますね。

これは、お父さんがお母さんのように振る舞うことです。

結果、同じことです。

では、どうすべきか?

何度も言ってますが、それは「ギューってして、チュッチュッチュ♪」だけで良いんです。

それだけです。

ある年齢まで達するとギューってしてチュッチュッチュってわけにもいかなくなるでしょう。

そのときは、お金のかからないことをするのです。

散歩です。

ブラブラ、ブラブラ、歩くのです。

夜空を見上げて、星座の名前を言ったりするのも良いでしょう。

現代だと、ISSを探すのも楽しいですね。

そういうタダのことに価値があるのです。

お金をかける必要はないんです。

ねずみの国に行く必要は全くありません。

ねずみの国はエネルギーが減ります。

アトラクションの、ワー!!!とか、キャー!!!とか、メーターの針が振り切れるようなことは、脳に悪いんです。

焼き切れちゃう。

それが子供を使って、お金儲けを考えている大人には分からないんです。

たまに、動物園でおサルさんを見るくらいで良いんです。

草食動物にエサをやるくらいで良いんです。

今は、良い動物園が多くて良いですね。

子供の脳はデリケートです。

そーっと、そーっと扱わなくちゃ。

あ、最近、猫が子供を助けた動画が流行ってますね。

あれは本当に感動しました。

まさに、猫神さまです。

いつもね、子供を、どこかで、見守ってたんでしょうねぇ。

遠からず、近からず、いつも見守っていた。

で、子供がピンチの時だけ猛然と跳びかかって行った。

あれは、本当に、猫が助けてなかったら、子どもは死んでましたよ。

あの犬は、完璧に獲物をしとめる野生動物に戻ってましたから。

脚の次は、喉を噛んでたでしょうねぇ。

本当に、あの猫はお手柄です。

猫は本当にスゴイ。

アッパレ、ニャンコ先生。

ローとソー

鬼平犯科帳が好きである。

テレビシリーズも好きですが、やはり、本が素晴らしいと思う。

テレビドラマの中では出てきませんが、小説の中ではお父さんがたまに登場する。

鬼平のお父さんですね。

鬼平こと長谷川平蔵のお父さん。

このお父さん、あんまり役に立たないイメージなんです。

平蔵少年は継母にとてもいじめられるわけですが、この継母を叱ってくれればいいものを、何もしないんです。

そういった役に立たなさがモヤモヤするのですが、平蔵少年をいつでも見守ってる感じがあります。

継母の酷いいじめで家を飛び出して、悪い連中とつるんで、放蕩をするのですが、

別に叱るわけでもなし、平蔵の好きにさせているんです。

で、その父親の晩年、愛用の杖がありまして、そこには「和光同塵(わこうどうじん)」と彫ってあるんです。

本を読んでいるときはピンとこなかったのですが、ある日、「あぁ、老子だ」と気付きました。

和光同塵、どんな意味でしょ。

道沖而用之或不盈
淵兮似万物之宗
挫其鋭 解其粉
和其光 同其塵
湛兮似或存
吾不知誰之子
象帝之先

道は沖(ちゅう)なり、而(しこ)うして之(これ)を用うるに或(あるい)は盈(み)たず。
淵兮(えんけい)として、万物の宗(そう)なるに似たり。
その鋭(えい)を挫き、その紛(ふん)を解く。
その光(こう)を和げ、その塵(じん)を同じくす。
湛兮(たんけい)として常に存するに似たり。
吾(われ)、誰の子なるかを知らず。
象(しょう)は帝(てい)の先にあり。

難しいですねぇ、相変わらず。

道というのは、からっぽの容器のようだが、くんでも、くんでも、尽きることがない。
底がみえず、万物のもとのようだ。
そこでは、鋭さはくじかれ、粒子は解かれ、
光は和らげられ、塵もみえない。
まるで静かな沼のようだ。
われわれは、それがどこから生じたのか知らない。
はるか昔からあるようだ。

なんでしょ、これ。
宇宙っぽい。
なんだか、ブラックホールの説明みたい。
壮大すぎて、もう、ね。

で、和光同塵なんですけどね。

光というのは、才知のことですね。
自分の賢さをアッピールするなよ、と。

何度も、言いますが、人間は社会的動物です。
その中で生き残るには、いかに自分が優秀であるかをアッピールせねばならんわけで。
でもね、それはちょっと待て、と。
宇宙という壮大なものに寄り添って生きる場合、「なんぼのもんじゃい」と。

自分の光を和らげる。
つまり、他人から見たら、隙だらけの人間ですね。
そういう人の方がね、良いんです。

22歳くらいですかね、前の会社の社長から、

「君はカミソリだねぇ、カミソリはね、道を拓けないよ、ナタにならなくちゃ、ナタ」

「ナタ?」

「うん。ナタ。山道で道のないところを歩こうとするときは、ナタで叩きながら進むでしょ」

「はぁ」

「カミソリはね、役に立たないの。そういうときはナタよ」

「ほー」

「ナタになりなさい、ナタに」

22歳くらいの頃は、ほんとに、切れるという鋭さの方が大事だと思っていた。
その頃は、自分独りで仕事をしていた。
というか、結果として、独りになっていた。
でも、独りでできる仕事は、所詮、小さい。

大きな仕事は数人必要。
数人っていうのは主要メンバーのこと。
主要は数人で良い。
5人くらいで良い。
5人ひとり、ひとりが、とんでもなく我がまま。
我がままな人達にうまく寄り添うには、カミソリではダメなのだ。
ナタを意識したおかげで、面白い仕事ができた。

人生は、いろんな場面で、いろんな人が、良い事を言ってくれる。

ありがたいことです。

やっぱり、老子は良い本です。

これがバイブルに変わっていたら、よかったのになぁ。

もう何もかもが遅い。

これもまた運命。

にんともかんとも、にんにん。

暗く深い海

夫の知人がシェルターを造りました。

配偶者のDVにより逃げている女性のためのシェルターです。

また、私の知人が、ある公的機関で仕事をしているんですけどね、

DVで逃げている方の数が分かる機関なんですね。

で、その知人が、「どんどん数が増えていて怖い・・・」と言ってました。

そして、またある知人は、この方も公的機関で働く方なんですけどね、

猫などの異常死(バラバラの死体)があった場合に連絡が入るところなんですけど、

これまた、「どんどん増えている・・・」と言っているんです。



前にも引用しましたが、ブルーハーツの歌に

「弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものをたたく」とあります。

これらの暴力の特徴は、「陰でコソコソ」です。

あの人って乱暴よね~という、分かりやすい暴力ではなくって、

「ええええ?あの人が?うそー!!」という暴力です。

これはやっかいな問題です。


「周りに迷惑をかけてはいけない」という雰囲気があります。

他人に気を遣うことが社会的集団の中で求められるわけです。

「最初はビール」という風習に近いものがあります。

それぞれが飲みたいものが違うのに、乾杯をスムーズにするために、「とりあえずビール」なわけです。

今は、飲酒運転の取り締まりが厳しいので、ビールかウーロン茶ですね。

ほぼ2拓です。

個人の集まりではあまり無い風景かもしれませんが、会社組織の中だと、割とよくある風景です。

そこで、「僕はジンジャーエール」とか言っちゃうと、空気が読めない奴と言われ、出世も難しくなります。

集団から浮いちゃうんです。

男性はこういうアンテナが女性よりもスルドイですね。

素早く、的確に、周りを見て、状況を判断する能力に優れています。

女性は、割と、空気読めずに、「アタシ梅酒がいいな~」などと言っちゃいます。

これは、女性特有の図太さですね。

自殺者の割合で女性が少ないのも、こういった図太さを持っているからかもしれないです。

つまり、何が言いたいかというと、自分の欲求を抑える傾向が強いということです。

自分がAがいいな、と思っていても、周りを見て、Bと言っちゃう。

本心はAなのに。

この「空気を読む」という能力、「思いやり」ということにも繋がるから、集団の中では「是」です。

しかし、人間の心はそんなに単純ではないんです。

沈殿するんです。

空気を読むために、飲み込んだ自分の本当の欲求、それは消えずに沈殿するんです。

で、沈殿物が多い人ほど、空気を読めない人を攻撃するんです。

「ジンジャーエールとか、アイツ馬鹿じゃねぇ?空気読めよ」とか。

自分が我慢をしているから、我慢をしない人が許せないんですね。

自分に沈殿物が多いって気付くのは難しいです。


小さい頃から、飲み込んできた、我慢の堆積。

我慢のひとつひとつは、とても小さな我慢です。

「あぁ、ジンジャーエールがよかったのになぁ」とか。

あっという間に忘れちゃうような我慢です。

でも、堆積しちゃうんだな、これが。

で、我慢しすぎて、自分が本当は何を欲しているのか、分からなくなっちゃう。

これはね、自分の本来持っているエネルギーをかなり吸い取っちゃうんです。

100のエネルギーを持っていたら、10とかになっちゃう。

で、これが、0とかマイナスになったときに、爆発です。

それが、影の暴力です。

「ええ??あのおとなしい人が??」的な暴力です。

おとなしいというのは、エネルギーが切れかかっているからおとなしいんです。

本来、静かな人ではないんです。

エネルギーを吸い取られ、吸い取られ、無気力になっちゃった人です。

前に、私の父が、同僚のお子さんに、セーラームーンの大きな人形を贈ったことを書きました。

その子の家はおじいちゃんが厳しくて、「男がセーラームーンなんて欲しがるな!!」という家風でした。

父は、「よっしゃ、お父さんの出番だ」と嬉々として、大きなセーラームーン人形を買ったわけです。

会社の人にプレゼントされたと言えば、おじいちゃんも「返してこい!」とか言えないわけで。

私自身も、仮面ライダー自転車だの、コンバトラーV超合金セット、だの、買ってもらいました。

「リカちゃん人形は、ミサイルも出ないし、合体もできないからつまらない」

子供ながら、冷静で合理的な判断である。


エネルギーは有限です。

オギャーって生まれた時が100です。

で、ここから、増える場合もあり、減る場合もある、と。

で、減ってる人は、減っていることに気づかない、と。

増やす方法はあるのか?

あります。

勇気をもって、自分の心の中にダイビングすることです。

勇気をもって、と書いたのは、勇気が必要だからです。

心の中は、深く、暗い、海です。

一人ぼっちで、真っ暗な海に潜るんです。


想像してみてください。

水深も分からない、真っ暗な海。

たよりなく、プカプカ浮かぶ自分。

そのとき、脚に、何かがフワっと触れる。

「何???今の何???」

とても、怖いです。

そのフワっとしたものを調べる勇気あります?

潜ってみたら、ただのワカメかもしれないんですけどね。

「なんだ、ワカメじゃん」って分かったとき、エネルギーが増えるんです。


簡単なようで、非常に難しい。


今、ニャンコ先生がこちらをじっと見てる。

うんうん。

分かってる。

ニャンコ先生はいつも潜ってるね。

偉いよ、ほんと。

でもさ、体重7.9キロってどうよ?

ニャンコ先生、重すぎじゃね?

ダイエットしてください。

究極進化

ちょっと前に、ほぉぉぉ!ってなったこと。

「民」という字のなりたち。

この字、象形文字だと、目に針を刺している様子らしいです。

民という字は、目を針でついて見えなくさせた奴隷の意味だそうです。

ほおおおおお!!!

すごいですね。

奥が深くてびっくりします。

実際にそんな事をしたのか?と疑問ですが、恐らくしたんでしょうね。

始皇帝を暗殺しようとした高漸離(こうぜんり)という人のお話などがそうですね。

高漸離という人はとても楽器が上手で、でも、始皇帝にとっては安心できる人物ではなかった。

で、始皇帝は、高漸離の目をつぶして、彼の楽器を楽しんだわけです。

しかし、ある日、高漸離は楽器に鉛を仕込んで、始皇帝を殴り殺そうとしたんです。

未遂に終わりましたけどね。


このように、安心できない人を奴隷にする場合、目をつぶす、というのはあったでしょうね。

で、これが「民」という字の成り立ちです。


現代では、これは「目」ではなく「脳」ですね。

なるべく、脳を使わせないようにするんです。

どういう事かと言いますと、洗脳とか、マインドコントロールです。

薬物や、苦痛や、恐怖を与えて、自分でモノを考えるのを止めさせることで、自在に操るのです。


宗教は、「地獄に堕ちる」という恐怖を与えて信者をコントロールしますね。

冷静に考えれば、地獄なんてないんです。

そんなもの存在しないんです。

でも、それを「ある」と言って、恐怖を与える。

そして、天国だとか、極楽浄土だとか、そういうアメで釣るわけです。

それも存在しないんです。

そして、信者のお金を巻き上げるのです。

おかしいでしょ?

仮に天国が存在したとしても、「お金」とは関係ないし。

どうして、お金を欲しがるの?

天国とか、極楽浄土は貨幣経済なの?

んなわけないじゃん。


ケーブルテレビを見ていたら、ざぶとん職人の職人技をやっていたんです。

すごいですよ、ざぶとん職人。

一見して、これは無理でしょう、という量の綿を布の中に詰めちゃうんです。

金糸、銀糸で彩られた布の中に。

すごくフカフカでゴージャスなざぶとんの出来上がりです。

あらやだ、綺麗。

でね、このざぶとん、誰が座るかってーと、坊主なんですよ。

坊主です。

フカフカでゴージャスに、坊主。

変でしょ?

ブッダがフカフカゴージャスに座りましたか?

座ってないですよね。

蓮の中には座ったかもしれないけど。

だからね、疑問に思って欲しいんです。

あれ?おかしいな?と。

座布団職人は良いんです。

坊主に気づいて欲しいんです。

ソレに座ることに恥じて欲しいんです。

「檀家さんの有難い気持ちにこたえて座る」とか、嘘だもん。

坊主ですら、「民」という字です。

盲目です。

ブッダのことを思い出してあげてください。

ブッダが現代にいたとして、ゴージャスな座布団に座ると思う?

ブッダが現代にいたら、腰抜かして驚くよ。

「戒名?なんですかそれ?え?お金とるの?ランクがある?100万円?極楽ではその名前で呼ばれる?」

はぁぁぁ????

ブッダも激おこプンプン丸です。

これも、もうずっと続いてる。


もっと考えよう。


生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、

死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥(くら)し。

空海さんの詩ですね。

これ、ほんと、素敵。

一歩、一歩、踏みしめながら、

「生まれ」

「生まれ」

「生まれ」

「生まれて」

「生の始めに暗く」


「死に」

「死に」

「死に」

「死んで」

「死の終わりに冥し」


どんな意味でしょ?

これは、この句の前があるんです。


三界の狂人、狂せることを知らず
   
四生の盲者、盲なることを識らず

狂人も、盲者も、「民」という字と同じ意味ですね。

ソクラテスが「無知の知」と説きましたが、それと同じです。

無知だという事が分かっているだけでも「知」ですよ、と。

普通はね、それすら分からないんです。


生まれても、生まれても、何度生まれたって、わかりゃしない。

死んでも、死んでも、何度死んだってわからない。

自分が狂っていることすらわからない。

自分の目が見えないこともわからない。

なにもわかっちゃいない、ということすら、わからない。


だからね、考えるんです。

わからないけど、考えるんです。


うちの猫はいつも考えています。

今も、沈思黙考しています。

しゃべらないし、だれにも尋ねない。

いつも静か。

人間の究極進化は猫になることだと思う。

今、滅多に鳴かないうちの猫が、ちっちゃく、「にゃー」って言った。

きっと、「YES」という意味だろう。

ニャンコ先生はほんとスゴイ。

にゃんぱらり。

どんぐり

欲望という、人類が発展してきたコアな感情がある。

宗教では、欲望を捨てよ、と言い、信徒達から財産を巻き上げる。

なるほど、欲望というのは、心を狂わせるものである。

しかしですね、捨てることなんてできないんですよ。

欲望を抑えろ、という人もいますけどね、抑えるということは抑圧することです。

抑圧というのは、常に、爆発と一体です。

マグマのように溜まるわけです。

我慢すればするほど、反動が大きいということです。

仏教をみれば分かります。

女色を絶たねばならん仏教ですが、水商売の女性達は、

「坊主はスケベが多い」と言います。

つまり、抑圧したり、排除しようとしたり、しようとすればするほど、コントロールできなくなるのです。

何が言いたいのかというと、欲望を抑えろ的なことをいう人は「人間」を観ていないということです。

自分すら冷静に見ることができていない、ということです。

自分を冷静に見ることができない人が、偉そうに、欲望を抑えなさい、というのは滑稽であるわけです。

では、どうすれば、このモンスターと仲良くできるのか、と。

それはですね、自分の脳を使って、突き詰めて考えることなんです。

他人の脳ではなく、自分の脳です。

自分に向かって、「なぜ?」を100回繰り返すことです。

他人の脳を使う人は、すぐに止めてしまいます。

自分の脳を使う訓練をしていないので、「だってしょうがないじゃん」と言って思考を止めてしまいます。

「欲しいものは欲しいんだし」

「みんなが持ってるんだし」

「みんながやってるんだし」

「常識でしょ」

他人の振る舞いを見て、それを欲望の理由づけにしてしまうわけです。

本当に?

本当にそうなの?



ダイヤモンドという鉱物がありますね。

炭素の変形したものですね。

貴重だ、希少だ、と言われていますが、嘘ですよね。

めっちゃ、埋蔵量あるじゃないですか。

でも、市場に出すと、お値段がくずれちゃうんで、出さない。

市場にはほんのちょーーーっぴり、だけ出す。

で、貴重だ、希少だ、価値がある、と。

めちゃめちゃ賢い人のワナじゃないですか。

カラットだの、クラリティだの、と「ホホホ」と言いながら自慢する人、アホですよね?

と、ここまでけなしますが、実際は、キラキラしてて綺麗ですよね。

で、ここからが、思考です。

欲しいの?と。

欲しいと思ったら、「なんで?」と。

なんで欲しいの?

で、女性は思考が苦手なので、ここで終了です。

「欲しいから欲しい」

議論の余地なし。

結婚披露宴だって同じです。

他人の披露宴の招待状がくると「あ~やだやだ」と言います。

しかし、披露宴には出席するんです。

「なんで?」

「だって、出席しないと、自分の披露宴のとき来てもらえないじゃん」

「行くの嫌なんでしょ?」

「だって、お金ないし、服もないし、休日がつぶれちゃうし」

「なんで行くの?」

「だから、自分のときに・・・」

で、出席するわけです。

で、料理がどうの、ドレスがどうの、とケチをつけるわけです。

で、それでいて、自分も披露宴をするわけです。

で、ご祝儀が少なかったと文句をいうわけです。

これが、もう、ずっと続いてる。

披露宴ってだいたい400万くらいかかりますよね。

400万ですよ。

ブライダル産業は儲かります。

ホテル事業が赤字でも、ブライダルで生き残ってるホテルは多い。

日本の産業にとって貢献してるわけです。

とても、大事な産業です。

でも、私はパスしました。

何もかもパス。

結納、婚約指輪、結婚指輪、結婚式、披露宴、新婚旅行、全てパス。

もちろん、相手のあることだから、相手の意見を無視したわけではないです。

ラッキーなことに同意を得られたから、そうしたわけです。

でも、これを人に言うと、それこそ「なんで?」のラッシュ。

だから、言わない。

他人の行動には「なんで?なんで?」としつこいのに、自分の行動には「なんで?」と問わない。

逆だろ、と。

自分に問えよ、と。


自分の脳を使うって難しい。


「寵辱若驚」(ちょうじょくは狂えるがごとし)

寵愛や屈辱は人を狂ったようにさせる。

と老子さんも言ってます。

寵愛も屈辱も他人からもたらされるものです。

寵愛を受ければ狂ったようになるし、

屈辱を受ければ、さらに狂ったようになる。

「なんで?」

他人に自分をまかせちゃうからです。

他人の中の自分に一喜一憂しちゃうから。

それって他人の脳ですよね。

寵愛を受ければ、そりゃ嬉しいですよ。

屈辱は悔しいです。

でも、そういうときも「なんで?」と自分に問いかけると、自分なりの答えがでてくるわけで。

自分の脳を使うことで、欲望モンスターと対峙できるわけです。

自分の脳が「楽しい」と反応したことに集中すればいいのです。


犬の散歩をさせたら、どんぐりが一杯落ちていたんです。

「あ!どんぐり!!」となんだか、すごくテンションが上がったわけです。

「なんで?」と考えたら、

やはり、太古の昔にどんぐりを食べていた時代の自分の記憶が残っているのかな?と。

縄文時代のどんぐりを食べていた自分。

縄文時代の自分も、おそらく、どんぐりを見つけたら、テンションあがってたんだろうな、と。

どんぐり見つけてテンションあがる人は、縄文時代の記憶が残っている人。

ふふふ。

そう考えると楽しいですよね。

ラー

突然ですが、フローレス人って知ってます?

およそ1万2千年前まで存在していたらしい小人族です。

いや~~~、なんだか嬉しくなりますね。

魏志倭人伝の中に、

「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。」

とあるんです。

女王の国から4千里ほど南に行くと身長3,4尺ほどの小人の国あり。

3,4尺っていうのは、100センチくらい。

フローレス人も100センチくらい。

これはっ!!!

ふふふふふ。

こうやって想像するのが楽しいのでね。

正しいとか、間違ってるとか、ヤボよね。

小人の国がありました、って童話の世界でしょ?

非現実的。

でも、実際に居たっぽい。

ワクワクしますね。

と、いうことは、

邪馬台国もどこかにあったんでしょうね。

どこかな~~~って想像するのも楽しいわけで。

まぁ、日本全国、いや、日本すら離れて、いたるところに、邪馬台国はここでは?って説があります。

みんな好きねぇ。ふふふ。

でも、まぁ、やっぱり日本でしょうね。

そう考えると楽しいですからね。

で、日本のどこよ?ってことなんですが。


「皆黥面文身」

顔や体に入れ墨をしている、とあります。

「今倭水人好沈没捕魚蛤」

お魚や貝を捕ってる、とあります。

こういう所から察すると南方系ですね。

現代でも漁師さんで入れ墨をしている方は多いです。

実は、私の母方のおじさんは漁師で入れ墨を入れています。

入れ墨とか893の人、と思われるかもしれませんが、

漁をする人というのは非常に信心深いのです。

魔除けの意味もありますし、現実的には、水死体になったときに、誰だか判別するためもあったりします。

あははは。

現実的。

でも、ほら、水死体になっちゃうと、ほんと誰だか分からないですからねぇ。

で、入れ墨です。

南方系の漁師さん達って感じですね。

で、邪馬台国って結構広いんです。

世帯数が多いの。

ってことは、やっぱり平野じゃなくっちゃね。

で、大きな川も必要ですね。

川のあるところ、文明あり、ですし。

で、とっても暖かい気候なんです。

現在の気候よりも、もうちょっと暖かかったみたいですね、昔は。

で、卑弥呼なんですけどね。

これは、漢字で当て字です。

まだ日本は文字のない時代ですし。

卑しいって字があてられてるのも、中国からみると、野蛮な国なんです。

でも、日本語だと、「日巫女」でしょうねぇ。

太陽の神様に使える巫女ですね。

太陽の神様はどこの原始宗教にもでてきます。

だいたい、男性神です。

で、食事の用意をしたり、衣服をつくったり、添い寝をしたり、するのが巫女の役目です。

早い話、奥さんです。

卑弥呼は結婚してなかったという記述があります。

つまり、神様と結婚したので、一般的な結婚はしなかった、という意味です。

で、神様のご神託を賜り、それを皆に伝えるという役目です。

太陽の神様と言えば、天照大神ですね。

アマテラスさんは女性神です。

あれれ?

太陽神は男性神では?

恐らく、アマテラスさんも「巫女」です。

太陽の神様の奥さん=神様である、という。

まぁ、神様に性別うんぬん、もどうかと思うのですけどね。

アマテラス=卑弥呼、とか言われたりもしますが、

太陽神に仕えるというのは、原始宗教ではよくあることなので、お日様に使える巫女はいつの時代もいたのかな、と。

で、ここで、太陽が重要になるのですけどね。

やはり、日出国です。

日が出る。

東ですね。

水平線から大きな太陽が昇る国。

太陽が信仰の対象として、成立する国。

そこが邪馬台国です。

で、ここで、老子です。

え?ここで老子?

「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。」

谷神(こくしん)は死せず、是れを玄牝(げんぴん)と謂う。
玄牝の門、是れを天地の根と謂う。
綿綿として存するが若(ごと)し。之を用うれども勤(つき)ず。

えーっと・・・。

老子では、谷というのをとても神秘的にとらえています。

谷というのは、あらゆるものを生み出すもの。

女性器に例える人もいます。

生み出す、という意味ではそうですね。

万物を生み、育み、決して尽きることがない。

それが谷です。

この谷は宇宙的な意味もあると思います。

物質に質量を与えたのも「谷」であるとするならば。

で、谷には神様がいる、と。

実は、老子というのは、だれが書いたのかハッキリしていないのです。

古代の言い伝えを集めたもの、という人もいます。

昔の人が太陽を信仰したり、万物を生み出す谷を神秘に思ったりするのは、自然なことだったと思います。

で、邪馬台国ってどこよ?

うん。

卑弥呼が住んでいたのはやっぱり高千穂かな、と。

で、邪馬台国は五ヶ瀬川付近ですね。

宮崎の北です。

きゃははははは!!

結局、高千穂かよ、と。

卑弥呼の神殿は高千穂。

人々は五ヶ瀬川沿い。

です。

いや、あのですね。

言い訳かもしれないけども。

あそこは本当に神秘的ですよ。

ものすごい気があります。

でもね、とても残念なことですが、卑弥呼の子孫は沖縄かアイヌです。

恐らく、渡来人の殺戮から逃げたのだと思います。

高貴な人ほど、皆で守って遠くに逃がしますからね。

沖縄やアイヌの風習が魏志倭人伝に近いのもそれだと思います。

ふふふ。

本当に面白いですね。

卑弥呼の使っていた鬼道(きどう)というのは、恐らく超能力ですよ。

占いであれば、占いと記したでしょうから。

で、卑弥呼が、

「倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を献上」

とありますが、生口というのは奴隷のようなものです。

しかし、これを大層喜んで、お礼に、金印だの、色んな宝物を送っているんです。

奴隷10人なんて喜ばないですよ、ふつう。

奴隷なんて腐るほどいるんですから。

でも、喜んだ。

喜ぶには訳がある。

これはですね、特殊能力のある人達を送ったからなんです。

超能力者ですね。

きゃーーー。

面白い。

いや、でもね、前にも書きましたけど、私の祖母も、祖母の兄も特殊能力者ですし。

私には遺伝してないけど。

そういう人達がいたんですよ、昔は。

で、祖母たちは、宮崎の北の人達ですから。

ね。

面白いですね。

きゃっきゃっ。

歴史ロマンは楽しいね。

あぁっ女神様

父はいつも唐突な人だった。

あれは、何歳頃だろう?8歳くらい?

ある日、「はい、これ」と差し出された。

「なに?」

「般若心経」

「はんにゃしんきょー?」

差し出されたのは、折り畳み式の紙。

お経ですね。

で、覚えなさいとか、一緒に読もうとか、一切なし。

渡されただけ。

中を見ると漢字だらけ。

でも、ひらがなでルビをふってるので、一応読める。

「まーかーはんにゃー、はーらーみーたー」

意味不明。

しかし、子供って意味よりも、音が好きなんですよね。

音というか、韻?

「しきそくぜーくー、くーそくぜーしき」とか。

中でも一番覚えやすいのが、最後のところ。

「ぎゃーてー、ぎゃーてー、はらぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼじそわかー」

意味は分からないけど、なんか楽しい。

子供は柔軟ですからね。

で、大人になると、何やら、奥深い意味があるのでは?と感じる。

きっと有難い言葉なんだろうな、と。

「色即是空、空即是色」とか、なんかすごそう。

色は空なり、空は色なり。

カッコイイ。

でもね、ある日、紀伊国屋だったかな、ぶらぶらしてたら、お経テープが聞こえてきた。

お経がカセットになって売ってたんです。

で、それは、サンスクリット語で読む般若心経だったわけです。

「まーかーはんにゃー・・・」

一緒やん!!!!

どーゆーこと??

なんで、漢字で書いてあるのと一緒なの?

そこで、初めて、音訳であることを知った。

漢字は当て字だったんです。

意味あると思うじゃないですか?

漢字に。

でも、音訳ですから、意味はないんです。

でも、音に、漢字を当てた人はとても賢い人だっただろうから、意味のある漢字をあてたんでしょうけどね。

でも、音訳です。

超ビックリ。

で、結局、般若心経ってなんなの?ってことです。

簡単に訳せば、

「人生色々あるけど、この呪文を唱えたらいいよ」

「ぎゃーてーぎゃーてー、はらぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼじそわかー」

です。

えええええ???

で、最後の呪文は、

「女神様!女神様!女神様!ささげたてまつります~~~」

です。

ぼじ=女神様

ぎゃーてーは、女性を呼ぶときの形容詞らしいです。

そわかーは、ささげます~、みたいな意味。

何をささげているかは不明。

いや~~~~~、これも、1800年くらいは受け継がれているのかな?

とにかく、長い間、受け継がれてきてるんです。

なんかスゴイ。

最後のぎゃーてー、ぎゃーてーの呪文がミソ。

ここだけ、唱えればOK。

うっそーーーん。


でもね、般若心経は役に立つんですよ。

小学校4年生のとき、父の転勤で社宅に住んだ。

その社宅と相性が悪かったのか、頻繁に金縛りにあったのだ。

本当に辛かった。

で、寝てると、耳鳴りがしてきて、体が硬直するわけで。

そこで、子どもの頭で考えた名案は、お経です。

でも、完璧に覚えてないからテキトーです。

まーかーはんにゃーはーらーみーた・・・と唱えて、途中をすっ飛ばして、

「ぎゃーてーぎゃーてー、はらぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼじそわかー」

で、金縛りが解けちゃう。

ラッキー!

便利です、般若心経、の最後のところ。

子供って不思議ですね、最後の呪文の所はちゃっかり覚えているわけで。

やっぱり、便利だから、長い間受け継がれちゃうのかな?

中学のとき、引っ越ししたので、相性の悪い社宅とはオサラバでしたけど。

あのころはお世話になったな、と。


あぁ・・・こんな風に般若心経のことを書くと怒る人がいるかもな~~。

軽く扱ってる、とか。

でもね、こういうものを、ものすごい重大な意味があることとして、有難がるのは違うな、と。

すごく深い意味を持たせようと躍起になる人もいるだろうなぁ。

でも、サンスクリット語だよ?

音訳だよ?

しかも、サンスクリット語でも、完璧じゃないから、それもよく分からないんだよ?

ディズニーの歌でもあるでしょ。

サラガドゥラ メチカブラ ビビディバビディブー

歌え踊れ楽しく  ビビディ・バビディ・ブー

これと同じなんですよ。

唱えるとなんか楽しくなるから、唱えたら良いよ、っていう。

うわ。

般若心経とビビディバビディブーを一緒にしちゃった。

でも、一緒だし。

唱えると楽しくなるんです。

それが呪文の良いところ。

ビビディ・バビディ・ブー♪

ピカピカ

最近、ふと自分の手を見ると、父とソックリになってきたなぁって。

女性としては喜ばしくないけれど、優しかった父の手を思い出して、ついつい眺めてしまう。

遺伝って本当におもしろい。

どうやら、記憶も遺伝するみたいですね。


うちの犬なんですけどね。

アジリティっていう競技に参加してるんです。

棒を跳んだり、ジグザグしたり、いわゆる障害物競争ですね。

で、うちの犬の両親犬もアジリティしてるんです。

普通、棒を跳んだり、細い板の上を走ったりって怖がるんですよ。

でも、初めから、スイスイできちゃう。

犬の学校の先生曰く、記憶も遺伝するみたい、とのこと。

犬の例で申し訳ないけど、人間もそうかもしれないな、と思って。

ほら、モーツアルトのお父さんも音楽家ですしね。

うちの犬とモーツアルトを比べるって・・・。

いや、しかし、遺伝って面白いなって。


しかしですよ、遺伝は万能ではないんですよ。

どうも「徳」は遺伝しないっぽい。


うちの父は本当にすごい人だった。

祖父が寝たきりになった時、毎週末、父は、祖父の家に行っていた。

車で片道2時間ですよ。

しかも、山道。

それなのに、父は、到着して、すぐにバケツにお湯を汲むんです。

たまに、私が帰省した時に、私も手伝おうかなぁ、と思って動くと、

「paranaちゃんはいいから」と言って、私の目の前でピシャリとふすまが閉められた。

父は、タオルをお湯につけ、固くしぼってから、祖父の体を全身くまなく拭いていた。

その頃、父はすでに肝臓を悪くしていたので、顔色がとても悪かった。

介護をしてもらう祖父の方がツヤツヤした顔色だったので、親戚からは、

「どっちが病人だか分からない」と笑われたりしていた。

私は、この年になっても、父の足元にすら及ばない。

徳の部分って遺伝しないのね。


私の母なんですけどね、本当に、考えの浅い人なんです。

自分のことしか考えていない人なんです。

で、その母の両親なんですけどね、つまり母方の祖父と祖母。

私が生まれた時には既に亡くなってたんです。

どうも、母が若い時に亡くなったみたい。

だから、一度も会ったことない。

母も祖父母の話は一切しないので、どんな人かも分からなかった。

で、一度だけ、母が自分の両親の話をしたんです。

母の両親は、放浪の旅人っていうんですか、つまり、乞食ですね。

そういう人を見かけては、家に招いて、お風呂に入れて、食事をあげて、衣服も洗ってあげてた人だったみたい。

それを母から聞いたときは「うそーーー!!!!」と本当に驚いた。

母の実家の玄関には版画が飾ってあった。

その版画も、母の両親がお世話をした人で、後に有名な版画家になった人がお礼にくれたものだった。

いつも、「変わった版画だなぁ」と思っていた版画にそんなエピソードが!

そんなすごい人達から、母のような人が育つってことが信じられなかった。

しかも、母は、そんな両親を尊敬していない、していないどころか、

「うちも貧乏だったのに、余計なことをしていた人」なのだ・・・・。

徳って・・・・遺伝しないのね・・・・。

まさか!母の徳の無さが、私に???

それは、嫌すぎるので、やっぱり、徳は遺伝しないことにしときます。

記憶は遺伝しても、徳は遺伝しない。

はい。



徳って不思議ですねぇ。

遺伝じゃなければ、一体、何?

どっから来るの?

先天的なものならば、遺伝。

後天的なものならば、育ち。

育ち、は関係ない。

徳のある人に育てられても、この結果ですし。

でも、遺伝でもない。


これこそ、魂、なのかもしれない。

どこからともなく、ピョンって、入ってくるもの。

おそらく、丸くて、ピカピカしている、玉です。

あ、ピカピカしてるのは、徳が高いバージョンで、ふつうの人は、そこまでピカピカしていないかも。

だから、ふつうの人は、磨かなくちゃいけないんでしょうねぇ。

どうやって磨くのか分からないけども。


私の心の中に、神楽を楽しむ神様がいる、と前に書きましたが、おそらく、ソレ。

残念ながら、私の中にいるのは、ふつうの神様。

あたり、はずれ、でいえば、はずれ。

神様をはずれとか言うって・・・。

いや、でも、はずれ、だし。

八百万もいますからね、あたりもはずれもありますよ。


はずれだけど、結構、仲良しだと思う。

どうやってピカピカに磨くか分からないけども、仲良くやれたらそれでいい。


そういえば、うちの猫神様。

トラネコの方は体重が7.6キロもあるんです。

で、コーヒーが好きで、マクドナルドが好きで、パンと、ホイップクリームも好き。

なんだか、アメリカ人みたい。

兄妹猫のクロネコの方は、全然そういうの食べない。

猫でもこんなに違う。


魂ってほんと不思議。

魂っていうか、前世かなぁ。

ここらへんは難しいですねぇ。

英語で話かけてみようかしらん。

海と空

ふと、こんな短編を考えた。

地球外知的生命体が地球にやってくる。

そして、地球の知的生命体の代表とお話しがしたい、と言うわけです。

そこで、代表を決めようとするのですが、なかなか決まらない。

アメリカの大統領にするのか、ローマ法王にするのか、はたまた・・・。

全世界で討議が重ねられ、やっとこさ、代表を決めるわけです。

それなのに、相手はもういない。

どこかの星へ帰っていっちゃったみたい。

せっかく決めたのに、なんだよ、失礼な宇宙人め。

でも、宇宙人はちゃんとお話しをしていた。

宇宙人が、地球の知的生命体としてお話しをした相手は?

それは樹齢二千年の木だった、というオチ。

ちょっと、星新一っぽいかな?

まぁ、宇宙人からみたら、人類は野蛮だと。

そういう皮肉ですね。


空海なる人物がいますね。

天才ですわ。

ま、そこは良しとして。

なんで空海って名前にしたんでしょうね?

修行のとき、空と海しか見えなかったから、とかいう説があるみたい。

私は、ちょっと思ったんですけど。

境目のことじゃないのかな、と。

境界線っていうの?

海と空の境目。

そこのところに、3次元と4次元の境目をみたのかな、と。

時間の超越っていうのかな。

私たちの知覚では3次元しかとらえられない。

でも、空海さんは、感覚的に4次元を認識しちゃったのかな、と。

どえらい天才ですからねぇ、空海さんは。


即身仏の作り方をケーブルテレビで見たんです。

もうね、驚きですよ。

X線で見たら、臓器が全部残ってますからね。

生物は死んだら腐るようにできてるんです。

エジプトでミイラを作るとき、真っ先に臓器を取り出すのも、この理由。

腐っちゃうんですよ。

自然の法則は、土に還そう、還そうとするから。

だから、極限まで体脂肪を減らして、長い時間をかけて、微量の毒を摂取して体内の菌を殺す。

一体、空海さんは何がしたかったのか、と。

土に還るべき肉体を留めたかった理由はなんだろ、と。

と、いうわけで、生きてるらしいです。

いまだに。

空海さんは。

3次元の世界と4次元の世界をいったり、きたり、してるんでしょうね。

話すことはできないだろうけど、話してみたいなぁ。

でも、失礼なこと言っちゃいそうだな。

「もう、土に還りなよ」と。

それが生物としては、自然なんだからさ。

空海さんは本当に人間のことを心配してる人だと思う。

どうにかしてあげなくちゃ、と。




和をもって尊し、って言うじゃない?

でも、その和ってさ、自分都合じゃない?

自分都合の和。

宗教が、別の宗教を異端だ、悪魔だといって殺戮するのと一緒。

狭い世界での、和。



大和の国と書いて、やまとのくに。

大いなる和。

それが大切なのにね。

狭い和でしか、事象を捉えられない。


限界を感じるにゃぁ。


無用の用

最近ね、世の中で一番必要のないセリフって何なのかな?って考えたんです。


「冒険」・・・お好きですよね?

ワンピースってアニメ、長いですね。

チョッパーが好きなので、ケーブルテレビの一挙放送で見るんですけど。

まぁ、冒険ですね。

うんうん。


夫の姉の子供、ようするに甥っ子なんですけど。

京都大学を受験したんです。

甥っ子は独りでホテルに泊まって、夕食をホテル内のレストランで食べようとしたんです。

そしたら、周りは、受験生と思しき人達でいっぱいで、かつ、皆さん親御さんが一緒であったと。

甥っ子はそんな中、独りでコース料理を食べたらしいです。

受験が終了して、夫の姉、つまり義姉は引率してくれた先生にお礼の電話を入れました。

「うちの子が大変お世話になりました。ありがとうございました。」

「いえいえ、僕の方こそ助かりました。」

「え?」

「他の子は親御さんが一緒でしたから、〇〇君(甥っ子)のお母さんまでいらっしゃったら、僕、何もすることがなくなって困るところでした(笑)」



義姉はなかなか人物ができた人です。

例えば、甥っ子が「ピアノを習いたい」と言ったとき、

「うん、いいよ。そのかわり手続きは自分でしなさい」といって、一切、何もしないのだ。

甥っ子が5、6歳のときから、こんな調子だったという。

甥っ子は、ピアノも、水泳教室も、塾も、進学する学校も、全部自分で選び、自分で手続きをした。

甥っ子いわく、「今までお母さんから勉強しなさいっていわれたことは一度もない」とのこと。


ね。

ほら。

やっぱり。


世の中で一番必要のないセリフは「勉強しなさい」だ。

これは本当に必要ない。

私の父も言わなかったし、私の成績すら無関心だった。

なぜ、必要ないのか?

それは勉強という字をみれば分かる。

強い気持ちで勉めないとだめだから。

つまり、「自分の強い意志」が大切ってことです。

「勉強しなさい」というセリフは間違っているんです。

誰にも命令できないし、強制もできない。

自分が強い気持ちをもってやるしかない。

それが分からない人は「勉強しなさい」と言うんです。

つまり、自分が、勉強したことないんです。

勉強したことないから、勉強しなさい、と言えるわけで。

勉強しなさい、と言われたら、

「先ず、お前が勉強しろ」と言っても良い。

「子供のため」だとか、「親としての責任」だとか言う人は勉強したことがない人。


高校のときの先輩の家はとても変わった家風だった。

「家は一家団欒をする場所で、勉強をする場所にあらず」といって、一切の勉強をさせてもらえなかった。

家で一切勉強をさせてもらえない先輩は、学校でするしかないわけで。

宿題も休み時間にするしかない。

当然、授業は集中して聴く。

で、京都大学に合格しているわけで。


いや、こんな例はゴロゴロしてるんだと思う。


ほんとにね、いい歳して、親がついてこなくちゃ受験もできないとか。

そら、社会人になって、うつ病にもなるってもんです。

冒険のアニメがいくら流行ってもダメ。

現実はコレ。

メンタルを鍛える機会が与えられない。


面白い話を聞いたんですけどね。

目が見えない人が手術で目が見えるようになっても、すぐに画像は認識できないそうです。

例えば、三角の図を見せても、図の淵を何度も何度も、目がなぞって、やっと「三角」って認識になるんだそうな。

つまり、瞬間的に「三角」って分かるのは、小さい頃から、脳が訓練されているからなんですね。

当たり前、と思っていることでも、脳が一生懸命頑張ってくれているからなんです。


つまり、小さい頃から、脳には負荷をかけた方がいいんです。

親が何でもかんでもやってあげたら、脳は育たないんです。

脳が育たないってことは、ストレスに弱いってことです。


親は何もしちゃいけない。

親がして良いのは、ギューってして、チュチュチュ♪だけ。

それだけ。

アブストラクト

ケーブルテレビをみていると、時々面白い番組がある。

拷問と処刑の歴史なる番組は実に興味深かった。

処刑道具が、いかに苦痛を長く与え、観衆に見応えのあるショーにするか、という点で色々考えられているのだ。

中でも一番悲惨というか、「よくもまぁ、こんな道具を考えたものだ」と妙な感心までしてしまう処刑道具があった。

で、興味深かったのは、その一番悲惨な道具を開発したのが、司教という点だ。

司教ですよ?

愛とか、道徳とか、そういうのを説く人ですよね?

そういう人が、その一方で恐ろしい拷問処刑の道具を造るわけで。

拷問処刑される人は殺人をした人だとか、強盗をした人ではない。

異端者である。

別の宗教を信じているってだけで、一番悲惨な殺され方をするわけです。

しかも、ショーなんです、それが。

観衆がみて喜ぶんです。

もうね、だから、宗教は嫌いなんです。

冷静に考えたら酷いことが、全く分からない。

異端者だって、愛する家族がいたり、真面目に働いていたりするわけです。

同じ人間ですよ。


「老子」って何だろう?っていつも思う。

読んでも読んでも分からないから。

何で分からないのに、読んじゃうんだろ。

何千年も前からある本なのに、地味に存在してる。

本当に地味。

でも、本当に、大切な本。

この本の大切さを理解できる人は少ないだろうな。

普通「何これ?」で終わる。

世界で一番読まれている本は聖書らしい。

でも、本当に、一番読まれなくてはいけない本は老子だと思う。

読んだって分からないのに読む価値あるの?

読んだって分からないから、読む価値があるんです。

つまり、脳を使え、と。


結局ね、人類で一番イケナイことは、思考停止だよ、と。

思考停止に陥ったときに、人類は滅亡しちゃうよ、と。


でもねぇ、滅亡してもいいのかもしれないねぇ。

地球さんにとって価値あるんかな?


中世ヨーロッパで錬金術、流行りましたよね。

一生懸命、金を造ろうとしたんです。

でもね、金は原子番号79番の原子ですよ。

できないんです。

原子だもん。

しかし、現代の錬金術は頑張りました。

中性子をあてると別の原子になっちゃう。

まさに、錬金術です。

ウランに中性子をあてるとプルトニウムになっちゃう。

原子番号92が94になっちゃう。

すごいことですよ。

不可能が可能になっちゃった。

そして、その時に莫大なエネルギーが出ちゃう。

大発見。

石油いらない。

資源のない国ニッポンは大喜び。


でもね、不自然は不自然をよぶ。

自然じゃないからね。

無理がある。

地球さん的には、必要ないから、存在もさせてなかった。

地球さんの了解を得てなかったんですね。


なんとか、コントロールできるように、今必死。

夢のエネルギーですし。

人類の英知とやらで、何とかなるんでしょうかねぇ。


昔、よく知らないオジサンがこんな事を言った。

「この世に女しかいなかったら、いまだに川で洗濯してるよ」と。

その人は侮蔑のつもりで吐いたセリフだろうけど、私は想像したら「悪くない」と思った。

川で洗濯するしか方法がなかったら、川で洗濯すればいい。

それもまた楽しいと思う。

洞窟で暮らしていたかもしれないけど、それしか方法がないのなら、それもまた楽しい。


年間自殺者3万人、うつ病は増える一方。

どんな世の中が幸せか分からない。


大道(たいどう)廃(すた)れて、仁義有り。

慧恵(けいち)出(い)でて、大偽(たいぎ)有り。

六親(ろくしん)和せずして孝子(こうし)有り、

国家昏乱して忠臣有り。


大いなる道が廃れると、仁義があらわれ、

つまらない知恵が出てくると、大いなる嘘があらわれ、

親が争えば、孝行な子供があらわれ、

国家が混乱すれば、忠臣があらわれる。


老子って超COOL!!
ほんとカッコいい!!
何千年も前にコレ。
ほんと、惚れるわぁ。

ゾウリムシ

ポジティブシンキング、明るく、前向きに。

うんうん。

分かる。

分かるし、とても良いこと。

でもね、人間の基礎はネガティブシンキングなんですよ。

この土台を丸っと無視して、ポジティブで行こうっていうのは無理があるな、と。

なぜ、ネガティブシンキングが土台かというと、それは生存本能のため。

危険回避ですね。

だから、嫌な出来事ほど記憶に残るんです。

つまり、脳が、嫌な事ほどフォーカスを合わせるんです。

いじめた記憶より、いじめられた記憶の方が残るのも、これ。

脳が焦点を合わせやすいんです。

で、この脳の機能を無視して、ポジティブだの、前向きだの言ったところで何にもならない。

むしろ、追い詰めちゃう。

「明るく、前向きじゃない自分はダメなんだ・・・」とか。


とりあえず、「土台はネガティブ」。

これ。

こっからスタート。


で、次に、客観視。

もう、嫌になるくらい、客観的に自分を観る。

そして、「どうにもならない」という諦め。

突き抜けた諦めの先にあるのが、「まぁ、いっか」という心境。

ここまできて、やっと、「前向き」について検討できる。

ここらへん無視して、ポジティブだの、明るく前向きに、だの、いうからズレるんです。

客観視は簡単なようで、難しい。


ところで、facebookとかいうものがありますね。

友達のやたら多い人いますよね。

何百人とか。

私ね、こういう人「客観視できない弱い人」だと思ってるんです。


面白いのが、今勤めている会社の社長。

社長とかしてると友達リクエストも多いようで。

で、とりあえず承認するんですね。

するとあっというまに、数百人とかなっちゃいそうになるわけです。

すると、

「今日は削除の日~~♪」

と、言いつつ、100人以下になるまで削除するんです。

どういう人から削除していくかというと、友達の人数の多い人。

「こういうヤツは信用できんし、削除してもバレんやろ♪」


面白い。


社長 「俺、こないだ人から、単細胞って言われた~」

私  「つまり、ゾウリムシですね」

社長 「あはははは!ゾウリムシって!酷い!」


社員から、ゾウリムシ呼ばわりされて、爆笑している社長。

強い人だ。


脳はネガティブシンキングが土台になっているわけですけど。

そこをジっと見つめて、諦める。

諦めた先にあるのが、ポジティブシンキング。

つまり、ポジティブとネガティブは一体。

陰陽一体。


ネガティブを無視してポジティブを語ることなかれ。


お。なんかカッコイイ。

たま

猫と一緒に暮らす。

つくづく、猫って100%だなぁ、と思う。

何が?

「100%」という単語だけ浮かぶけど、具体的に何が100%なのか分からない。

でも100%なんですよ。

存在?

愛?

なんだろ?

イメージで言うと、こぅ、なんていうか、100%でワーってくるんですよ。

いや、実際に近づいてくるわけではないけど。

ちょっと離れたところから、ジーってこっちを見てる。

耳を澄ますとぐるぐると喉を鳴らしている。

そこに1%の陰りもない感じ。

100%なんですよ。


ずっと前、テレビでお笑いの人が言っていた。

「新幹線の中でマナーの悪い人がいたら、『あぁ、この人は人間一回目の人なんやな』と」

つまり、前世は動物で人間じゃなかったからマナーが悪いという意味らしいです。

前世も人間ならマナーが良いという事です。

後に、このお笑いの人は暴力団との交友などで芸能界からいなくなった。



地球から観ると、一番マナーが悪い生物は人間ですよね?

人間以外の生物は実によく調和している。

もし、人間がこの世にいなかったら、見ることはできないけど、本当に美しい惑星だろうなぁ。

全ての景色が完璧だろうなぁ。

見たいなぁ。

見れないけど。


老子の教えに

「天地不仁、以萬物爲芻狗」というのがある。

天地、仁、なし。万物をもって芻狗(すうく)となす。

芻狗(すうく)というのは、祭事に使われる藁でできた犬とか、人形とか、そういうものです。

これは、サラっと書いてるけど、ものすごい教えですよ。

衝撃的。

だって、どんな宗教だって、「祈れば救われる」的な教義があるんです。

実際は、「祈る」=「お布施」なんですけどね。

宗教も金儲けですし。

人間の心はとても弱いから、何かにすがりたいんです。

そこに付け込んで、「祈れば何とかなる」的なことを言っちゃう。

神様は見てますよ、みたいな。

そっちの方が楽なんですよ。

それなのに、何千年も前に、

「天地に慈しみの心なんてないです。全てのものがどうでもいい存在なんです。」

って言っちゃってる。

でもね、天地(地球)は全てのものに、与えて、与えて、与え尽くすんです。

決してケチることなく、全てを与えてくれるんです。

見返りも求めずに。

見返りどころか、破壊されたとしても、文句を言わない。

どうでもいい存在なのにね。


で、最初に戻るんですが、猫もそれに近いなぁって。

きっと、飼い主のことなんて何とも思ってないんですよ。

でも、与えて、与えて、与え尽くしてくれるんです。

見返りも求めずに。


老子の教えを体現しているのが猫なんです。

やっぱり、ニャンコ先生はすごいな、と。

にゃんぱらり。

暴れ馬

ふと、周りをみると、「お。」っと気付くことがある。

機嫌良く生きている人と、不機嫌に生きている人だ。

不機嫌な人は、機嫌よく生きている人が嫌い。

でも「嫌い」という言葉をダイレクトに使うことにはためらいがあるのか、

アレコレと理屈をこねて機嫌よく生きている人を非難する。

ニコニコしている人に向かって、

「ニコニコしていると他人からナメられません?」とか言う。

ニコニコしている人はポカーンとしてしまう。

意味が分からないから。

ポカーンとすると、「天然ちゃん」などと言われ、また揶揄される。

不機嫌な人の人数が多いと、「天然ちゃん」は仲間外れにされる。

気の毒なことである。

しかし、「天然ちゃん」は機嫌よく生きる人なので、あんまり大したことではない。


両者は生きている次元が違いすぎるのだ。

同じ空間にいて、同じものを見、同じ体験をしたとしても、両者は違う次元にいる。

どうしてこんなに差が生まれてしまうのか。


辛い事実であるが、それは親からの「絶対的な愛」を感じて生きてきたかどうか、だ。

他者よりも優秀であることを期待されて育つのは相対的な愛である。

バカでも何でもいい、生きてくれているだけで有難い、と育てられるのは絶対的な愛。

この絶対的な愛を感じて育つ子は強い。

愛を信用できるから。

相対的な愛で育つ子は、心がグラグラする。

自分が劣っている人間だと愛されないと思うから。


「妬み」という感情がある。

これはもう、本当にやっかいな感情である。

やっかいすぎるし、エネルギーも強すぎる。

しかも、大抵の場合、妬みの自覚がない。

自分の中にある「妬み」が大きすぎて直視できないのだ。

怖くて、見ることができない。

そこで勇気をもって見ることができる人は、強い人。

「あぁ、私、妬んでいるんだなぁ」と思える人は、強い。

妬みを自覚できる人は、自分を深く掘り下げることができる人。

そして、妬みがどこからきたのか分析できる人。

分析すると小さい頃にあった出来事などにぶつかる。

「あのとき、こうして欲しかったのに、してもらえなかった」という寂しい気持ち。

妬みの核を見て、納得する。

過去は変えられないのだから、諦める。

そういう勇気のある人は、強い。


愛というのも暴れ馬だし、妬みというのも暴れ馬だ。

本当に人を翻弄する。

人生を狂わす、といってもいい。

エネルギーが強すぎるから。


弱い人は直視できない。

直視できない人は死ぬまでできない。

でも、幸せではないから、他人を攻撃する。

そして、寂しいから、群れる。

弱いもの同士で集まる。

沢山友達はいるのに、でも寂しい。

本当に「友達」と言えるのかもあやしい。

そういう人は目をみたら分かる。

笑顔の写真でも、目が不安そうにしている。


本当に親の責任は大きい。

バカでも何でも可愛い!愛してる!と発信し続けること。

毎晩、ギューって抱きしめて「チュ♪チュ♪チュ♪」をくり返すだけでいい。

たったそれだけで、いい。

たったそれだけなのに、ね。

できない親も多いよね。


人生に一番必要なのは勇気。

戦う勇気じゃないですよ。

自分を直視する勇気。

それさえあれば、機嫌よく生きていける。

でも、一番難しいのも、この勇気。

人生のテーマですわ。

巫(ふ)

世の中には理屈では必要性を見いだせないものがある。

「なぜこれが必要なの?」と問われても、だれも答えることができないもの。

なんだか知らないけど必要なんだよ・・・、としか答えられないもの。


小さいころ。

滅多に泣かない少女だった。

そして、毎年、毎年、決意していた。

「今年こそは泣かないぞ!!」

アタシ分かってるから。

ウルトラマンの中は人間ですから。

それと同じですから。

中は人間ですから。

人間っていうか、オッサンですから。

しかも、町内のオッサンですから。

分かってるから。

支度するところから見てますから。

「ほら、人間じゃん」

人間なんだよ。


アカメン、アオメン、と呼ばれる鬼の面。

赤と青。

赤い鬼と青い鬼が舞うんです。

中は人間、中は人間。

今年こそは泣かない。

太鼓と笛の音。

心臓に響く。

そして、ある瞬間。

「うわーーーん!!」

また泣いてしまった・・・。

負けた・・・。

敗北。

ほんとうに、自分でも不思議で不思議で。

分かってるのに。

とてもくやしい。


どんな現代風音楽を聴いても、神楽の太鼓と笛の音以上に心臓を揺さぶられる音は無い。

いてもたってもいられなくなる。

始まりの、太鼓の「ドドン!」の音でもうだめ。

自分の中にいる別の何かがソワソワする。

こういうのが、ソウルミュージックなのかもしれないね。

その民族に伝わる音。


神楽は良い。

ほんと。


私のいとこなんか、「将来、何になりたい?」って聞かれたとき、

「神楽舞(かぐらまい)」になる!!」って答えてた。


私は別に神楽舞になりたい、とは思わなかったなぁ。


このいとこの披露宴のとき。

皆に酒を飲まされてベロベロになっていたのに。

太鼓と笛の音を聞いた途端、舞い始めた。

新郎なのに。

しかも、余興で他の人が舞う予定なのに。

舞い終わると、その場に倒れてしまった。

次は、新郎のお父さんが舞い始めた。

もうね、止まらないんですよ。

ソウルミュージックですからね。

魂が揺さぶられて。

皆が、次々に舞うからエンドレス。


神楽、大好き。

もう、随分、長いこと見てないけど。

いとこの披露宴が最後だったなぁ。


目に見えないものの証明は難しい。

見えないし、計測も不可能。

でも、いるんだろうなぁ。

神楽は人間だけで楽しんでいるのではない。

何かが、一緒に楽しんでいるのだ。

こういう体験は小さいころにしておいた方が良い。

大人になると、頭で考えるから。

きっと、観光がてら、神楽を見ても「ふーーーーん。退屈」ってなると思う。

感性が柔らかい人は「うわー!!」ってなるかもしれないけど。

そういう人は珍しいと思う。


どんな民族も、原始的な民族であったころ、神楽(のようなもの)を楽しんだと思う。

自分も楽しくて、自分に付随する存在も、それを楽しむ。

一緒に楽しむ感覚。

目に見えないものの存在を感じられる遊び。

そういうの大切だと思うなぁ。

くるくる

もうだいぶん時間も経ったことだし書こうかなっと。

私の勤めている会社の専務さんなのだけど。

私に向かって、

「君も論語くらい読んだら?」と言った。

いつも思うのだけれど、本を読めだの、あーしろ、こーしろ、って他人に言う人って何なの?

私が論語を読んでいないこと前提ですよね?

ってか、論語を読んだから何なの?

それが偉いの?

孔子はね、私には合わないんデスよ。

波長が違うのよ。

簡単に言えば「エラソー」なんです。

「君も論語くらい読んだら?」っていうニュアンスとソックリ。

「はぁぁ??」ってなる。

イエスキリストさんが言ったことと、現在のキリスト教がズレてるように、

孔子の言わんとしていることと、孔子好きな人はズレてるんですよ。

その専務さんなんですけどね、会社のお金をチョロまかして、会社追い出されちゃったんですよ。

たった5万円ですよ。

たった5万円を飲み屋のオネーチャンに良い恰好がしたくて、チョロまかしたんです。

たった5万円くらいで解任って酷いって思われるかもしれないけど、

日頃の言動がエラソーだったから、たった5万円でも、

「日頃偉そうな事ばっかり言っててコレですか?」って事です。

「もう明日から来ないでください。会社の鍵も変えましたから中にも入れません」

そう社長が告げたとき、

「私にも家族がいるんですから、そんな急に言われても・・・」

と青ざめていた。

私はこういう場面は本当に嫌いなので、ずっと顔を下に向けたまま「早く終わらないかな・・」と思っていた。

まぁ、解任されたら、解任されたで、ほうぼうで会社の悪口をまき散らしてくれたわけですが。

何年も前の事だけれど、いまだに無職です。

奥さんが公務員で良かったね。


うん。

私は確信した。

やっぱり孔子はダメだね。

孔子そのものではなく、孔子の教えとやらが、それを学ぶ人にとって、染み込まないんです。

老子よりも断然分かりやすいので、楽だけど、だからこそ、染み込まない。

ちょっと分かったフリをして偉そうにするんです。

だって分かってたら5万円なんてチョロまかさないでしょ?

窃盗ですよ。

しかも、飲み屋のオネーチャンって・・・。

欲望の塊じゃないですか。

孔子先生も脱力ですよ。

分かりやすいものは危険なんです。

分かりにくいものを、考えて、考えて、考えて、それでもなお、分からなくて・・・。

それはとても苦しいから、分かりやすいものに飛びつく。

分かったふりをして、偉くなった気持ちになって、他人を見下す。

そういう人たちを沢山排出した孔子はダメなんです。

人間の浅はかさを見抜いてないから。

人間の着地点を見抜けていない。

本当は良いこと言ってても、それが血となり、肉とならない。

染み込まない。

「巧言令色鮮矣仁」

(コウゲンレイショク、スクナシ、ジン)

分かりやすい。

でも、自分が「巧言令色」になっているって気付かない。

自分以外の他人のことだ、と思っちゃう。

まさか、自分のことだとは思わない。

そこが限界。


地球がね、くるくる回っているんです。

で、その地球はくるくる回りながら、さらに太陽の周りをまわっているんです。

で、太陽は銀河の端っこにあるんです。

で、太陽のような星が銀河には2000億個くらいあるんです。

で、銀河もゆっくり回っているんです。

で、銀河系のようなものが、さらに2000億くらいあるんです。

で、ものすごい加速しながら、どこかに向かっているんです。

どこかに吸い込まれているのかな?

排水溝の中に吸い込まれるように、くるくると回りながら、どこかに吸い込まれているのかな?

そういう想像がつかないエネルギーがあるわけで。

それを神と言うならば、

自分の宗教以外の信者は地獄とか、そんなケツの穴の小さいことは言わない。

アナタ厄年デスネ、お金をくれないと祈祷しませんよ、ご利益もナッシング。

なんて言わない。

道可道、非常道
名可名、非常名
無名天地之始、有名萬物之母
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼
此兩者同出而異名
同謂之玄
玄之又玄、衆妙之門

道というものが語ることのできるものであれば、それは道ではない。
名づけることができるものであれば、それは名ではない。
天と地は名づけることができないものから始まった。
名づけることができるものは万物の母である。
まことに、
無欲のもののみが、その本質を観ることができる。
欲のあるものは、その結果しかみることができない。
これらは同じものから出てくるが、それにもかかわらず、名がちがう。
これを「玄」(はかることのできないもの)という。
「玄」よりもなおいっそう「玄」のもの。
それは「妙」(はかることのできない本質)の門である。

これが老子第一章ですよ。

ほら。

なんのことやら???ですよね。

でも、脳を揺さぶられません?

ドキドキしません?

ワクワクしません?

何千年も前にコレですわ。

まいっちゃう。

老子ってほんとに素敵。

あの世にいったら、サインもらお~っと。

マヤ暦

いやいや、マヤ暦も新しいターンに突入したわけで。

世界は続くよどこまでも。

思えば、ノストラダムスの大預言を読んで、1999年に世界は終わると思い込んでたあの頃。

そして、マヤ暦の節目。

んーー、毎度、考えさせられますなぁ。

人類はいつか滅亡するのは確実なのだけれど、それがいつなのか分からない所がミソですね。

地球さんにとって邪魔な存在は人類だよなぁ、といつも思うのだけれど、なかなか淘汰されないなぁ。

地球さんは寛大だなぁ。

虐待多いですよね、最近。

動物に対する虐待も、子どもに対する虐待も。

弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く。

と歌ったのはブルーハーツですね。

ほんとに。

もうね、極まってきた感があるんですけどねぇ。

お金ってほんと大切ですよね。

紙幣っていうんですか?

紙に数字が書いてるだけのもの。

すごい発明ですよね。

物々交換とか大変ですもんね。

便利っちゃー便利なんですけども。

人のこころを滅茶苦茶に壊しますよね。

なんでそこまで酷いことができちゃうの?ってとこまで追い詰めますからね。

愛ってよく分からないものですけど、お金ってアルとかナイとか分かりすいから。

目に見えないものの方が大切だよ、って何千年も昔から言われているのに。

何千年も語り継がれていても、コレですわ。

猫の愛とかすごいですよ。

ほんとすごい。

2匹いるうち、1匹は戸が開けられるんですけどね、もう一匹は戸が開けられないんですよ。

でも、平気。

かならず、開けられる方の猫が、開けてあげてるから。

どんなに寝てても、気配を察知すると、すっ飛んでいって開けてあげてる。

愛100%ですよ。

開けられない猫が悪いんですよ、ってことは無いんです。

自己責任という言葉でいえば、開けられない猫はダメな猫なんでしょうけれどもね。

開けられない方の猫は、お返しに毛づくろいをしてあげてる。

相手の顔をガシって固定して、すごい丁寧に毛づくろいしてあげてる。

で、よく見ると、ひげとまゆげをガシガシ噛んでるんです。

どうりで、ひげもまゆげも短いわけだ。

なんでこんなに短いのかな?と思っていたら、毛づくろいの最中に散髪までされていたのね。

サービス過剰。

それでも、いつも仲良し。

猫様にはいつも教えられます。

猫は神様。

にゃんにゃん。

肉球のにほひ

最近、面白いなって思った事。

自分が経験した事と自分に対するイメージが一致していると良いらしい、ということ。

自分の経験というか、現実、かな。

現実と自己イメージがずれちゃうと色々不都合なことが起きちゃうみたいです。

でも、これって、すごく難しいことだと思う。

簡単なことではないです。

勇気って色んな種類があるけど、この現実を見る勇気っていうのが、恐らく一番の難関だろうな、と。

だから、私は老子が好きなんです。

老子は「学を絶てば憂いなし」と言っているわけですが、

この学っていうのが何なの?ってことです。

色んな人が色んな解釈をしています。

中には「学んで、学んで、学びつくせば、憂いなし」と訳して「勉学を極めなさい」という人もいます。

老子のこういうとこって本当に面白い。

色んな解釈ができるから。

私の思う「学」って外界の情報だと思うんです。

外からの情報って、自分を誤魔化せちゃうんです。

そーゆーのを止めて、内に向けなさいよ、ってことかな、と。

そうすると、「憂いなし」になるのかな、と。

私ね、世事に疎いんですよ。

何が流行ってるとか、どんなお笑いタレントがいるとか、本当に分からない。

「えー!そんなことも知らないんですか!」と言われることが多いんです。

でも、色々知っている人ほど空っぽじゃないですか?

自分と向き合ってないから、自己イメージがずれてる。

ずれている事すら気が付かない。

そーゆー人は「憂いまくり」です。

成功の本とか、幸せの本とか、大好き。

憂いまくってるから、振り回されるんですよ。

勇気がね、ないんです。

等身大の自分を見る勇気が。

そういう人は壊れちゃうから。

本当の自分を観たら壊れますよ。

だって、他人のことを「使えねー」って言ってる自分が一番使えないやつ、とかさ。

他人のこと「つまんない」と言ってる自分が一番つまんないやつ、とか。

他人にこと「面白くねー」とか言ってる自分が一番面白くない、とか。

そんな事実が解ったら壊れちゃう。

だから、臭いタッパーにはフタですよ。

老子って本当に面白い。

高校の頃、よくイメージしていたのが、

老子が川のほとりで魚釣りをしてて、それを私が隣で見ていて、

「全然釣れないね」って言ったら、

「エサつけてないし」って言われて、

「エサつけなくちゃ釣れないじゃん!」って言ったら、

「それもそーだねー」って言いながら、酒を飲む、みたいな。

そーゆーイメージ。

役に立たないじーさん、なんだけど、なんか好き!みたいな。

偉くない人の方が立派なんです。

人間よりも、猫の方が立派なんです。

そーゆーこと。

猫の鼻のゴマ

どうやら、この空間は「一兆分の1秒のそのまた1兆分の1秒」で出来たらしいですよ。

1兆分の1秒てっ。

瞬きどころの騒ぎじゃないですよ。

そのまた1兆分の1秒てっ。

何それ?

もうね、想像って言葉すら追いつかないです。

1回の瞬きの間に、何個宇宙ってできちゃうの?

1回の瞬きの間に、何個宇宙って消滅しちゃうの?

できたり、消えたり、できたり、消えたり、しちゃうものなの?

宇宙誕生から137億年経ってるらしいんですけどね、この空間ができたのは一瞬ですよ、と。

この空間が消滅するのも、おそらく一瞬でしょうね。

でね、この空間ができた時に「ほどよい重力」が発生したっぽいんですよ。あと時間も。

この重力が絶妙で。

もっと重力が強かったら宇宙の中はブラックホールだらけ。
もっと重力が小さかったら星が形成されないわけで。

で、今、こうしている傍で、うちの猫が寝てるわけで。

なんか、怖くないですか?

ゾっとしません?

この確率って考えると怖いですよね。

奇跡とかいう言葉どころじゃないですよ。

しかも、次の瞬きで全部消えちゃうかもしれないんですよ。

いやーーん。

この空間にある物質は、誕生以来、1つも増えてないし、1つも減ってないんですよ。

形を変えているだけで。

で、メタボな猫を形成しちゃってるわけで。

鼻にはゴマがあるわけで。

茶トラの猫には多いみたいですね、鼻のゴマ。

ゴミかと思って指でゴシゴシしても取れないんですよ。

鼻のゴマにも何か意味があるのでしょうか?

結局、何が言いたいかっていうと。

マクロからミクロまで、ってことで。

どうよ?

壮大でしょ?(笑)

やる気のない酒屋2

先週、やる気のない酒屋にワインを買いに行った。

こうやって書くと、すんなり買えた感じがするけど、実は先週の土曜日もシャッターが閉まっていたのだ。

日曜日にやっとこさ、買えたわけで。

私?私が悪いの?と自分を責めたくなってしまう。

で、その時に

「金曜日にワイン会をしますので良かったら参加しませんか?」と誘われた。

ワイン会・・・。

それはワインが好きな人が集う会ではないのか?

残念ながら、私はワインが苦手だ。

赤ワインが特に。

じゃー、なんで赤ワインを買いに行ってるんだ?と思われるかもしれないが、
飲めないからこそ、飲めるワインが限定されるのだ。

「いやー、あんまり、飲めないんで・・・」

思わず消極的な返事をしてしまった。

しかし、割と熱心に誘ってくれるので、「じゃー、考えておきます」と言って店を去った。

私の社交性は限りなくゼロに近い。

自分でも「これじゃイカン」と思っているのだが、にんとも、かんとも・・。

ワイン会・・・敷居が高いなぁ・・・。

どうしよう・・・と木曜日まで迷っていたが、「よし、1回だけ参加してみよう」とちょっと勇気を出してみた。

で、昨日。

ワイン会。

その酒屋の店内で開催された。

ゴチャゴチャしている店内の隅っこにあるテーブルを囲んで。

店主が、「自己紹介とかそーいうのは無いですから」と言った。

良かった・・・。

素性も分からない9人。

女性5人、男性4人。

ワインのうんちくなど誰も語らない。

5本目くらいの赤ワインのとき、ある女性が、「蟻の匂いだ!」と言った。

ええええ??

どれどれ・・・。

本当に蟻だ!!

てか、いいのか?そんな表現で。

店主が、「次のワインはご厚意で提供して頂いたワインです」

静かにニコニコしていた男性が提供してくれたようだ。

「皆さん、ワンコインをお願いします」

ん??何??

皆がごそごそと財布の中から500円玉を取り出した。

お地蔵さんの前のように、その人の前に500円玉が置かれた。

なるほど、持ち込みワインをしてくれた人には500円なのね。

私もそれに従った。

9人いるから、4500円。

なんだろう・・・このホコリを被った1985年モノのワイン・・・。

匂いを嗅いでみた。

んーー、タバコ?スモーキーな木の匂い?なんだ??

その時、一人の男性が

「猫のオシッコの匂いだ!」

ええええええっっ???

皆が「猫のオシッコ」にウケていた。

店主も「うちの猫のトイレ持ってきましょうか?」とか言ってるし・・。

提供者も笑っている。

良いの?それで良いの?

提供者が「こうやって皆で飲むから楽しいんですよね」と言った。

提供者がニコニコしながら
「このラベルの門の前が県道2号線でね、バスが通ってるんですよ、こっちの方に行くとね・・・」

どうやら、現地に行ったことがある様子。

へぇー。

そんなこんなで、お会計。

「一人2900円で・・・」

「そんなんだったら、もう3000円にしときなよ」

「じゃ、3000円で・・・」

いや、ちょっと待て、店主は料理もチョコケーキも用意してるし・・・。

赤字じゃん・・・。

本当に儲ける気がないのね・・・。

今日、昨日飲んだ「猫のオシッコ」ワインを調べてみた。

鉛筆の香りと書いてあった。

あ!!!そうだ鉛筆だ!!!

そっか、そっか、懐かしい匂いと思ったけど、鉛筆だ。

つか・・・値段・・・・。

恐れ多いことです。

ありがたやー。

やる気のない酒屋

私の家の近所には、やる気のない酒屋がある。

どのくらいやる気がないかと言うと、まず看板が無い。

かろうじて「酒」と書いてある看板があるので、酒屋なのは分かる。

そして、営業時間。

平日は開いてないのだ。

土日しか開いてない。

しかも、午後から。

そして、店内。

結構広い店内なのに、ものすごい量のガラクタが置いてある。

まぁ、店主にしてみればガラクタではないかもしれない。

そのせいで、広い店内はカニ歩きでしか歩けない。

その日、めざすワインはボルドーの赤。

どこにあるのかサッパリ分からない。

遠くに、フランス国旗のイラストと共に「フランスワインフェア」と書かれた紙が見えた。

「よし、あそこを目指そう」

ヨイショ、ヨイショとカニ歩きで辿り着く。

えーっと・・・ボルドーは・・・。

「ブルゴーニュ・・・、これもブルゴーニュ・・・、ブルゴーニュ・・・、ブルゴ・・・・」

私の困惑した雰囲気を察知したのか、店主が話しかけてきた。

「何かお探しですか?」

「あの・・・ボルドーを・・・」

「あー、ボルドーですかー・・・、ボルドーは、えーっと、これと、これだけですね」

2種類かいっ!!!!!(心の声)

「あの、これ全部ブルゴーニュですか?」

「ええ。私がブルゴーニュ好きなもんで・・・・(テヘッ)」

テヘッじゃねーよ。

店主の好みだけの品揃え・・・。

気を取り直して。

「えっと・・・、メルロー100%のはありますか?」

「品種で来ますか!品種でくるとは・・・、なかなか・・・」

店主はごそごそと探し始めた。

「あっ!入ってきたばかりのボルドーがありますよ!・・・でも・・これメルロー80%ですね・・」

「あ。もうそれで良いです。それください。」

我ながらいい加減な買い方である。

店内には、元ノラ猫だったという猫がワインの木箱の中でスヤスヤ眠っている。
木箱の中には毛布が敷いてあって暖かそう。

古いガラクタに囲まれた店内。

ちょっと変わった店主。

「来週、メルロー100%のワインが入荷しますので、電話番号を教えてください。連絡します。」

とりあえず、電話番号を教えて、カニ歩きで店外に出た。

相変わらず、変わった店だなぁ・・・。

感慨にふけりつつ家に戻った。

それが先週。

そして今週。

土曜日、メルロー100%が入ったというので買いに行った。

4200円のワインを2980円で良いと言う。

いやいやいや・・・そんなに安くせんでも・・・。

「ワインはどんなグラスで飲まれてますか?」と聞かれた。

「コップです」

「え?コップ?どんなコップですか?」

「普通のコップです」

「ワインはグラスでも味が変わりますので、やはり大き目のものが・・・」

店主、ゴソゴソゴソ。

あっちをゴソゴソ、こっちをゴソゴソ。

「あっれー?おかしいなー?この前のワイン会で使って・・・えっと、この辺に確か・・・」

さらにゴソゴソゴソ。

「あ。あったー」

ワイングラスを差し出された。

「これ、差し上げます」

「いやいやいや、そのような訳には・・・お金払いますから」

押し問答が続いたが、店主はお金はいらない、の一点張り。

有難く頂戴した。しかも2つ。

そして、ワイングラスでワインを飲んだ。

うん。コップでもいいよ、私は。

ちょっと渋いけど美味しかった。

そして、電話が鳴った。

「ワインどうでしたー?私も飲んで見たんですけどね、輸送でだいぶ揺れていたようで、澱が沈んでなかったですね。申し訳ないです。1か月くらい置くと沈むのですけどね」

アンタも飲んだんかいっっっ!

まぁ、美味しかったので、今日も買いに行った。

それが、今日。日曜日。

シャッターが閉まっていた。

日曜日も閉めるんかいっっっ!!!

どんだけ・・・。

でも、こういう店、好きだ。

かなり好き。

反断捨離

断捨離という聞きなれない単語をよく聞くようになった。

身の回りをスッキリすると心もスッキリ、らしいです。

へぇ・・・・。

ずっと前にも書きましたが、

「亡くなった父の財布の中から小さい頃にプレゼントした『肩たたき券』が出て来た」という類の話が大好物な私です。

もちろん、断捨離なるものを行ったとしても、大事な思い出が詰まっているものは捨てられないだろう、というかもしれない。

いやいやいや・・・。

捨てられちゃうんだな、これが。

一度、そういう波に乗っちゃうと捨てられちゃうんです。

よし!やるぞ!というノリになってる時はそういう脳の動きになっちゃうからストップがかからないんです。

躁状態ですね。

肩たたき券もゴミ箱へポイです。

これは危ないですよ。

捨てたのは汚い紙切れかもしれません。

財布の中もスッキリするかもしれません。

でもね、本当に捨てたのは「奇跡を起こせる切符」です。

愛と言い換えてもいいんですけどね。

愛って目に見えないものだから、実は実感することがとんでもなく難しいんです。

で、自分が大きな愛に包まれて生きてるんだなぁ、と実感できる人は少ないんです。

そういうミラクルをね、起こせる魔法の切符のようなアイテムが世の中にはあるんです。

一見、ゴミのようなものがね、その切符だったりするんです。

親の財布の中から肩たたき券を見つけた人は、その後の人生をずっと愛に包まれている実感と共に生きていけるんです。

これはね、奇跡ですよ。

老子ってすごいな、って思うのはちゃんとその事も言ってるんです。

一見必要のないものが、実はすごく大切だよ、って。

何千年も前から、言ってるんです。

だからね、「よく考えなさない」って事なんです。

老子が何を言いたいのか、難解すぎて分からないんだけど、でもどんな事象も深く考えなさいって事だと思う。

でも自分の脳を使って深く考えるのは面倒くさい。

だから他人の良く見えるアイデアに飛び乗っちゃうのも分かる。

その結果、なんか時代の波に乗れたかも、って嬉しくなるのも分かる。

危険です。

想いも、愛も、大事なものほど目には見えない。

空気だって目に見えないでしょ?

重力だって目に見えないでしょ?

すごい仕組みですよね。

大事なものほど見えないようにしてるんだもん。

大いなるものの存在って、本当にニクイ演出をするな、と。

わざと隠してるんですよ。

宝探しゲームですよね。

ほんと、面白くできてるよね、この世って。

反ひきよせの法則

ユニバースです。

なにやら、自分の願いはユニバースが叶えてくれるようですね。

具体的であればあるほどいいとか。

ふと、思うのですが、

「絶対浮気しない人が良い」

と言ってる人に限って浮気されたりしません?

「だまさない人」
「裏切らない人」

なぜか、言えば言うほど、ひきよせたくない人を引き寄せているという。

ちょっとだけ感じるんですが、そういう人に限って自分の事を棚に上げてる人が多いな、と。

つまり、「裏切りは絶対に許さない」と思っている人って、客観的に見ると結構裏切ってるよな、と。

人の誠意とか、奉仕とか、そういう気持ちに対して雑に扱っている。

自分が裏切るから、裏切られるんだよ。

心の中が「自分、自分」だから。

中には、「私は浮気をしていなのに」という人も多いでしょう。

でもさ、浮気ってそもそも何?

自分が本気で、他人は浮気っていう定義でしょ?

どうしてそう言い切れちゃうの?

他人を見くびっているからでしょ?

それ本気かもしれないじゃない?

「自分、自分」な人は深く物事を考える事が苦手。

自分が気に食わない事象に遭遇すると、「なぜそうなったのか?」の前に相手を責める。

「裏切られた」
「だまされた」

いやいやいや。

すべてのトリガーは自分で引いてるものなんです。

もしくは、つねにブーメランなんです。

そこが分かってないから、同じところをグルグルグルグル回っちゃう。

何千円も払って占い師にみてもらう。

占い師も一人や二人じゃないです、「あたる」という噂を聞けばどこへでも、です。

でも、中には秀逸なアドバイスをする占い師もいるわけで。

とある占い師のおじいちゃんが、ある人を占った。

鑑定と称した用紙に書かれた言葉は「口にチャック」だった。

しかも、赤ペンで。

あははははは。

確かに。

もし、それを真摯に受け止めて実行したら、その人はきっと何もかも上手くいくと思う。

嘘みたいに、自分の願うとおりになると思う。

でも、その人はそうは思わない。

きっとまた別の占い師のところにいくと思う。

自分の納得できる「あたる」を目指して。

しかし、口にチャックかぁ、いい言葉だね。

まさに老子。

「知者不言 言者不知」(知る者は言わず、言う者は知らず)

占い師のおじいちゃんもなかなかやるのぅ。

興味を覚えてそのおじいちゃんに会いに行った。

すると、

「あなたが私の前に座る理由が見当たらない」といわれた。

うはっ。

スルドイ。

占いをしてもらうためじゃなく、会いたかっただけだもん。

じいちゃんナイス。

1500円の価値はあったよ。

ほんと、お会いできて光栄です。
長生きしてね。

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